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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―吉岡長増  大友家の最長老

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戦国列伝―吉岡長増  大友家の最長老


※アイコンは紫虚上人

吉岡長増(よしおか・ながます)
豊後の人(??~1573?)

大友家三代に仕えた重臣。
吉岡家は豊後の大名・大友家の一族で、長増は前半生や生没年が不詳だが大友宗麟(おおとも・そうりん)の祖父から偏諱(長の字)を受けていることから、少なくとも祖父の存命中(1478~1518)に元服は済ませているものと考えられる。

史料に現れるのは1532年の大内家との戦いの頃からで、長増は加判衆(大友家の重臣団)に名を連ね、後陣の大将を務めるなどすでに重臣の地位にあった。
しかし1534年、宗麟の父である大友義鑑(よしあき)と反目したのか加判衆を解任され、その後は宗麟が家督を継ぐまで事績は途絶えてしまう。

1550年、宗麟の代になると義鑑の遺言により家老に復帰し臼杵鑑速(うすき・あきはや)、吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)とともに「大友家三老」と呼ばれた。
長増は大友家の主要な戦のほとんどに参戦する他、豊前・筑前・肥前3ヶ国の政務を取り仕切り、日向の国人衆の調略も担当する八面六臂の活躍を見せた。
1566年のものと思われる書状では戸次鑑連(べっき・あきつら 後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理ら名だたる重臣が連名で長増の意見を求めており、信頼の厚さがうかがえる。

1557年、毛利元就が北九州に侵攻すると、長増は対毛利の総司令官となった。
大内家を滅ぼし勢いに乗る毛利軍に当初から苦しめられ、1569年には筑前の大半を奪われた。
しかし長増は、まず謀叛を疑われ伊予に亡命していた佐伯惟教(さえき・これのり)を帰参させ水軍を立て直し、毛利軍の主力が筑前に集結しているのを見て取ると、かつて毛利家に滅ぼされた尼子家の旧臣・山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)を支援し後方で蜂起させた。
さらに毛利家に協力し海上を封鎖する能島村上家に、筑前方面の通行税を取る許可を与え、水軍の通過を黙認させると、大内家の生き残りである大内輝弘(おおうち・てるひろ)を旧領の周防に送り込んだ。
長増は豊前小倉城を攻める情報を毛利軍にわざとつかませ、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景ら主力を引き付けると、大内軍を周防で蜂起させた。
村上水軍の海上封鎖もあり、襲われるはずもなく手薄になっていた周防の諸城は次々と大内軍に落とされ、泡を食った毛利元就は北九州からの撤退を命じ、大友家は窮地を脱した。

1573年頃、70代なかばから80代前半で没したと推測される。
1578年、耳川の戦いで大友家が島津家に大敗すると、家老の吉弘鎮信(よしひろ・しげのぶ)は「吉岡長増、臼杵鑑速がいた頃は信賞必罰が行われ人の恨みはなかった。今は田原親賢(たわら・ちかかた)のような佞臣がはびこり代々の家臣が遠ざけられている。せめて立花道雪(たちばな・どうせつ)がいれば(道雪は中央を離れ筑前方面の司令官を任されていた)大友家はここまで悪くならなかっただろう」と嘆いた。
またその道雪も「吉岡長増、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と記している。

耳川の戦いで長増の息子も戦死し、吉岡家は大友家の滅亡と運命をともにしたが、子孫は肥後藩主となった細川家に仕え幕末まで存続している。

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