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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―新納忠元  親指武蔵

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戦国列伝―新納忠元  親指武蔵


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新納忠元(にいろ・ただもと)
薩摩の人(1526~1611)

薩摩の大名・島津家の重臣。新納家は島津一族に連なり、忠元の家はその庶流にあたる。

小柄ながら武勇に優れ、家中で武功の多い者を指折り数える時、真っ先に数えられることから「親指武蔵」「鬼武蔵」と呼ばれた。
一騎打ちで兜首を挙げ、負傷しながらも戦場を駆け「武勇は鬼神の如し」と恐れられたが、一方で教養高く和歌や連歌をたしなみ、漢詩や茶の湯の造詣も深かった。
1574年、牛根城の戦いでは敵将を降伏させるため自らを人質として差し出すなど、人情の機微にも通じた。

1581年の水俣城の戦いでは対する犬童頼安(いんどう・よりやす)が連歌を得意とすると聞くと、上の句だけを書いた紙を矢に巻き付けて城中に射かけた。頼安は下の句をくくりつけた矢を射返し、戦いながら何度となく矢文で連歌をやりとりした。
やがて頼安が開城降伏すると、感銘を受けた忠元の家臣が数人、頼安に仕えてしまった。忠元は家臣を返すよう抗議したが頼安は「家臣になったからには返すわけにはいかない。どうしてもというなら一戦つかまつろう」と言ったためやむなく諦めた。
その後、頼安が没すると彼らは後を追って殉死するほどに心服していたという。

1586年、戸次川の戦いで島津軍は敵方の長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)を討ち取った。
長宗我部家の谷忠澄(たに・ただすみ)が遺体の受け取りに来ると、忠元は「自分がその場にいれば決して討ち取らせはしなかった」と将来有望な跡取りを殺したことを涙ながらに陳謝し、旧知の僧侶を信親の故郷の土佐まで同行させた。

1587年、豊臣秀吉の九州征伐に屈し、島津家は降伏した。
主君の島津義久(しまづ・よしひさ)が降伏後も弟の島津義弘や忠元は抵抗を続けたが、ついに義弘も降ると忠元も諦め、剃髪して秀吉のもとへ挨拶に出向いた。
秀吉がまだ戦う気があるかと尋ねると「私は武士ですから主君が戦うと言えばいつでも決起します。しかし主君の義久は一度でも主従の約束を交わしたら絶対に裏切らないから安心してください」と忠元は応じ、秀吉を感心させた。
その後、酒宴の席で豊臣方の細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)は忠元が白髭を持ち上げながら酒を飲む様子を面白がり「鼻の下にて鈴虫ぞなく」と詠んだ。忠元は即座に「上髭をちんちろりんとひねりあげ」と上の句を付けて返し、居並ぶ面々を驚かせた。

1600年、関ヶ原の戦いでは留守を預かった。
加藤清正が攻め寄せてくると聞くと、陣中に忍び込んでいる加藤家の間者にわざと聞こえるように数え歌を作り、領内の者に歌わせ兵を鼓舞したと伝わる。

1611年、86歳で没した。
殉死を禁じられたが2人の家臣が殉死し、殉死の代わりに指を詰める者が50余人いたという。
嫡子とその子がすでに没していたため、次男の子の新納忠清(ただきよ)が家督を継いだ。彼が没した時も禁止令が出されたにも関わらず殉死者が2名いたという。
新納家はその後も代々、島津家に重用された。

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