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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―田原親賢  戦犯にしてMVP

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戦国列伝―田原親賢  戦犯にしてMVP


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田原親賢(たわら・ちかかた)
豊後の人(??~1600)

大友家の重臣。出家後の田原常忍(じょうにん)の名でも著名。
妹の奈多(なた)が主君の大友宗麟(おおとも・そうりん)に嫁ぎ、また長らく大友家と敵対する田原家の分家を継ぎ、牽制役を担ったため、宗麟から重用された。

1565年には加判衆(大友家の重臣団)となり、臼杵鑑速(うすき・あきはや)が1575年に没すると筆頭家老の地位に上った。
典型的な佞臣として政治をほしいままにし、家老の吉弘鎮信(よしひろ・しげのぶ)は「吉岡長増(よしおか・ながます)、臼杵鑑速がいた頃は信賞必罰が行われ人の恨みはなかった。今は田原親賢のような佞臣がはびこり代々の家臣が遠ざけられている。せめて立花道雪(たちばな・どうせつ)がいれば(道雪は中央を離れ筑前方面の司令官を任されていた)大友家はここまで悪くならなかっただろう」と嘆いた。
宗麟にも絶大な信頼を受けたが、宗麟の傾倒するキリスト教には妹の奈多とともに嫌悪感を表し、養嗣子が洗礼を受けキリシタンになったと知るや廃嫡したほどだった。

1578年、島津家との耳川の戦いでは総大将を任されるも、戦の経験の浅さと人望の薄さから兵をまとめ切れず、持久戦に反対し勝手に進撃した田北鎮周(たきた・しげかね)に引きずられるように軍を進め、背後を島津家久(しまづ・いえひさ)に襲われるや恐慌をきたし全軍撤退を指示したため大友軍は大混乱に陥り、多くの兵と重臣を失う大敗を喫した。
この敗戦をきっかけに大友家は滅亡寸前にまで追いつめられたため親賢は無能の烙印を押されたが、もともと宗麟が重臣の反対を押し切って決定した出陣で士気が低かったこと、筑前・豊前など遠方からかき集められた兵も多く指揮系統が整っていなかったことなど、開戦当初から不安要素は多々あった。
また島津家の史料には「大友方で最も奮戦したのは田原紹忍」と記されており本人が力闘したのは間違いなく、戦の経緯にはいささか誇張もあると見られる。

敗走した親賢は、ここぞとばかりに田原本家からの責任追及を受け、所領を没収された。
1581年には宗麟の子で自身の甥にあたる大友親盛(ちかもり)を養嗣子に迎え家督を譲ったが、その後も反乱鎮圧に出陣するなど一線から退くことはなかった。
またキリスト教への憎悪はいや増したようで、耳川の敗戦は仏罰としキリスト教施設の破却を宗麟に訴えている。
1587年、宗麟が没するとその子の大友義統(よしむね)に仕え、1593年に大友家が改易されると豊後岡に入った中川家に仕えた。

1600年、関ヶ原の戦いに際し、西軍の毛利家の支援を受けた義統が豊後で挙兵すると、親賢ら他家に仕えていた旧臣が次々と馳せ参じた。
親賢は中川家の旗印を盗み出して軍旗に用い、中川家を無理やり味方に引きずり込もうと画策したという。
だが九州に留まっていた黒田如水(くろだ・じょすい)、加藤清正らに敗北し、義統はあっさりと降伏。
親賢は中川家に戻り今度は東軍として太田一吉(おおた・かずよし)と戦うも、意趣返しとして先鋒にでも命じられたか、銃弾を浴びて戦死した。

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