忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―大友宗麟  キリシタンと国崩し

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―大友宗麟  キリシタンと国崩し



大友宗麟(おおとも・そうりん)
豊後の人(1530~1587)

豊後の大名。宗麟は法号で本名は大友義鎮(よししげ)。
大友家は鎌倉時代から続く名家で、宗麟は20代当主・大友義鑑(よしあき)の嫡男として生まれた。
だが父は宗麟の異母弟に家督を譲ろうと考え、宗麟の傅役と結託し廃嫡を目論んだ。
1550年、宗麟を湯治に行かせるとその隙に宗麟派の粛清を図ったが、それを察知した宗麟派は逆に先制攻撃を仕掛け、義鑑を殺す「二階崩れの変」を起こした。
宗麟はそれにより家督を継ぎ、傅役には義鑑暗殺の首謀者の濡れ衣を着せ反勢力を一掃した。

1551年、中国地方に一大勢力を築いていた大内義隆(おおうち・よしたか)が重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)の謀反により没すると、宗麟は陶晴賢の申し出で弟の大友義長(よしなが)を大内家の新当主として送り込んだ。
これにより百年単位で続いていた大内家との対立は終結し、同時に宗麟は北九州を確保し、とりわけ博多を得たことで海外貿易で莫大な利益を挙げることとなった。
1554年には肥後も支配下に置いたが、父の不慮の死から旧臣には反発され、また宗麟がキリスト教に傾倒し仏教を迫害したため家中には宗教的な対立まで発生していた。

1557年、大内義長が毛利元就に敗死し大内家が滅亡すると、毛利家は北九州への侵攻を開始した。
苦戦を強いられた宗麟は豊富な資金力を活かして足利将軍家へ多大な援助をし、豊前や筑後の守護職、さらに九州探題の地位を得ると、将軍家の仲裁により毛利家との和睦を取り付けた。

1567年、尼子家を滅ぼした毛利家は和睦を破棄して再侵攻を始め、さらに豊前・筑前で反乱が相次ぎ、それに重臣の高橋鑑種(たかはし・あきたね)まで加わってしまう。
肥前では龍造寺家が台頭し窮地に立たされたが、吉岡長増(よしおか・ながます)の献策により宗麟は大内家の残党・大内輝弘(てるひろ)に大友水軍をつけ、周防に上陸させた。これにより背後を脅かされた毛利軍は九州から撤退した。

だが急場はしのいだものの大友家の衰退は明らかで、龍造寺家との戦いで弟の大友親貞(ちかさだ)が戦死し、不利な条件で和睦を結ばされ、龍造寺家は以降、一気に勢力を拡大した。
さらに薩摩の島津家が日向へ侵攻すると宗麟は大軍を送り込み阻止を試みたが、耳川の戦いで大敗北を喫し多くの重臣を討たれた。
この一件には毛利家に亡命していた足利義昭(あしかが・よしあき)が関与しているともされ、毛利家の上洛を促すため九州の諸勢力に働きかけ大友家を包囲殲滅し、後顧の憂いを断とうとしたという。

大友家は外では龍造寺・島津・秋月家に領土を侵食され、内では家督を譲った嫡子の大友義統(よしむね)とも、宗麟が隠居後も権力を握ったために対立していた。
宗麟は毛利家を攻める織田信長に接近し島津家との和睦を仲介してもらったものの、間もなく信長が本能寺の変で討たれ、外交戦にも失敗してしまう。

1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死した隙をつき、立花道雪(たちばな・どうせつ)に命じて筑後を奪回したものの、翌年に道雪が没し、重臣の高橋紹運(じょううん)も島津家と戦い敗死した。
もはや大友家の力だけでは島津家に対抗できないと悟った宗麟は、豊臣秀吉に臣従し援軍を得たものの、戸次川の戦いで豊臣軍は仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により壊滅し、ついに宗麟は臼杵城に追い詰められた。

貿易で輸入した戦国初とされるキャノン砲「国崩し」の威力でどうにか落城を免れると、豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)率いる10万の九州征伐軍が到着し、さらに秀吉も自ら10万の後詰めを率いて現れ、一転して島津軍は連敗を喫した。
そして1587年、島津家が秀吉に降伏する直前、宗麟は58歳で没した。チフスが死因と思われる。
九州制圧後、大友義統は豊後一国を安堵された。宗麟には日向を与えられる予定だったが、辞退したともその前に没したとも言われる。

なお義統はその後、文禄の役で誤報に騙され敵前逃亡した罪で改易され、関ヶ原の戦いでは再起を賭けて西軍につくも黒田如水に大敗し、ついに常陸へ流罪となり、大友家は大名としては滅亡したものの、徳川幕府の高家旗本として存続した。

宗麟は一代で北九州ほぼ全域を制し大友家の最大勢力を築き、海外貿易で巨万の富を集めたものの、末期には明や朝鮮との関係は切れ、利益も次第に博多の豪商に奪われ大した効果は得られなかった。
また書画や茶器の収集に没頭し、財政を傾け暗愚な義統にさえ注意される有様だった。
海外貿易への道を開いたキリスト教への信仰も過激化し、領内の神社仏閣を取り上げては土地を家臣への恩賞に回すだけでは飽きたらず、仏像や経文まで破棄しては僧侶を迫害し、仏教徒が大勢を占める領民や家臣の反発を呼んだという。(もっともこれは義統が主導したとする説が有力)
宗麟は大友家の最盛期を築いた一方で、大友家の衰亡をも招いたと言えるだろう。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R