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夢想大蛇

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戦国列伝―毛利元就  謀神

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戦国列伝―毛利元就  謀神



毛利元就(もうり・もとなり)
安芸の人(1497~1571)

毛利家の当主。卓抜した策謀で中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」や「謀神」の異名を取る。

1500年、父の毛利弘元(ひろもと)は長男に家督を譲ると、次男の元就を連れ隠居した。
だが10歳で両親を亡くすと元就は家臣に城を奪われ、追放の憂き目にあった。
養母に助けられ「乞食若殿」と呼ばれるほどの窮乏生活を送るうち、兄がアルコール中毒で急逝し、幼いその息子が家督を継いだため20歳になっていた元就が後見役となった。

武田元繁(たけだ・もとしげ)が毛利家の混乱をついて侵攻すると、元就は初陣とは思えぬ巧みな采配を振るい、武田元繁を討ち取った。
「西の桶狭間」と呼ばれるこの戦いで元就の名は隣国に轟き、以降も数々の戦で勝利を収めた。
1523年に甥が亡くなると元就は家督を継いだ。主家の尼子家の介入もあって多くの反乱を招き、弟や家老を失ったが、元就はかろうじて家中をまとめると、尼子家に恨みを抱き大内家へと鞍替えした。

だが尼子家との戦いは長く続き、また大内家の傘下として無謀な出陣を強いられることも重なり、元就は独立を考えた。
強力な水軍を要する小早川家に三男(後の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ))を、内部分裂しかけていた吉川家に次男(後の吉川元春(きっかわ・もとはる))を養子に出すと、混乱に乗じて有力者を暗殺して息子らに家督を継がせた。
いわゆる「毛利両川体制」を整え、専横をきわめていた重臣の井上家を粛清すると1551年、元就は大内家の重臣・陶晴賢(すえ・はるかた)による大内家当主・大内義隆(おおうち・よしたか)の暗殺に協力した。

元就は安芸・備後の国人衆を次々と傘下に収めていき、陶晴賢も元就の野心に気づき両者の間に軋轢が生じた。
1554年、大内義隆の姉婿である石見の吉見正頼(よしみ・まさより)が反旗を翻した。陶晴賢が制圧に出ると、元就も当初はそれに協力しようとしたが嫡男・毛利隆元(たかもと)や重臣の反対にあい、陶家との訣別を決断した。

元就はまず陶家の重臣で知勇兼備の江良房栄(えら・ふさひで)に謀叛の濡れ衣を着せて殺させると、石見に大内軍の主力が集結した隙をついて蜂起した。
大内家の総兵力は3万、毛利家は5千に満たなかったが、元就は激怒した晴賢を大軍の入れない厳島におびき寄せると、密かに味方につけた村上水軍に海路を封鎖させ、退路を断たれた晴賢を自刃に追い込んだ。
事実上の当主の晴賢を失った大内家は一気に衰退し、2年後に元就によって滅ぼされた。
大内家を滅ぼした元就は隠居を考えたが、他ならぬ嫡男・隆元の反対により断念し院政を敷くに留めた。
その後、1563年に隆元が急死したため、元就は生涯にわたり実権を握ることとなる。

宿敵・尼子家もまた当主の尼子晴久(あまご・はるひさ)が急逝したためいったんは和睦を結んだが、元就はこれを一方的に破棄し尼子領へ侵攻した。
元就は大内家の傘下で戦った時の経験から、尼子家の居城・月山富田城は力攻めでは落とせないと考え、降伏した敵兵を皆殺しにし、徹底抗戦を決意させることによって、城を兵であふれさせる変則の兵糧攻めを仕掛けた。
さらに尼子家の重臣に次々と調略を仕掛け、疑心暗鬼に陥った当主の尼子義久(よしひさ)は自ら家臣を殺し、信望を失っていった。
元就は頃合いを見ると、粥を炊き出し一転して籠城する兵に降伏を誘ったため、投降する者が続々と現れ、1566年、尼子義久は抗戦を諦め降伏した。

毛利家の支配域は8ヶ国に及んだが、中央では織田信長が台頭し、その援助を受けた山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)らが尼子家の残党を率いて蜂起した。
さらに九州では大友宗麟(おおとも・そうりん)が大内家の残党を周防で蜂起させ、毛利家は挟撃を受ける形となった。
やむなく元就は大友家と和睦し北九州から兵を引き、尼子家残党を撃破したが、これにより大内家の支配下にあった博多を奪われてしまった。

1571年、元就は75歳で没した。死因は老衰とも食道癌とも言われ、10年前からたびたび体調を崩していたようである。


~逸話~
元就は多くの印象的な逸話がよく知られている。

元服前に家臣と厳島神社へ参拝した時のこと、家臣が「元就様が安芸の主となれるよう祈りました」と言うと、元就は「なぜ天下の主になれるよう願わなかった」と尋ねた。家臣が「不可能なことを祈願しても無意味です。せいぜい叶っても中国地方の主でしょう」と答えると、元就は「夢は小さくしか叶わない。天下の主になると祈願して、ようやく中国地方の主になれようというもの。最初から安芸一国を目標にしてはそれすらできまい」と言ったという。

一方で尼子家を滅ぼした後の元就は(年齢的な問題があっただろうが)それ以上の勢力拡大を否定し「毛利家は天下を望まない」と公言し、息子や孫らもそれを遺訓として守り通した。(しかし大友家に奪われた北九州には執着し、晩年も侵攻を続けていた)

父と兄をアルコール中毒で亡くしたため、飲酒を慎み下戸を自称した。子らにも節酒を繰り返し説き、孫の毛利輝元(てるもと)が元服した際にはその母に小椀で2杯までと厳命している。

非常に筆まめで、数多くの書状が残されているが、その中でも息子らに宛てた「三子教訓状」は実に紙幅2.85メートルに及び、同じような内容が繰り返しくどくどと記されているという。
なお今さら説明するまでもない「三本の矢」の逸話は「三子教訓状」をもとに書かれた創作である。

また策謀の天才として知られるが、実戦ではほぼ必ず自身も出陣しており、記録に残るだけでも220戦を数えるという。

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