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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―浦上宗景  野心家に敗れた野心家


※アイコンは厳白虎

浦上宗景(うらがみ・むねかげ)
備前の人(??~??)

父の戦死後、兄の浦上政宗(まさむね)が幼くして家督を継いでいたが1551年、侵攻してきた尼子家に従属しようとした兄と意見が対立し、宗景は反尼子派の家臣とともに独立した。
宗景は安芸の毛利元就に従属し、備中の三村家親(みむら・いえちか)とは同盟し、1560年頃までに尼子・政宗勢力を破り備前の支配権を得た。
だが毛利家に従属した立場に不満を抱き1563年、一転して政宗と和睦すると毛利・三村両家と断交した。

翌1564年、赤松家の内紛に巻き込まれた政宗が息子の結婚式のさなかに暗殺されたものの、跡を継いだ浦上誠宗(なりむね)との関係は良好で、ともに協力し1567年には毛利・三村勢力を備前から駆逐し名実ともに備前を平定した。
宗景はこの機とばかりに誠宗や有力国人衆を暗殺し、さらに地盤を固めた。
だがそうした強引な統治は他の国人衆の反発を招いた。もともと浦上家と他家は主従関係というよりも寄り合い所帯に近く、中でも有力者の宇喜多直家(うきた・なおいえ)は野心深く反抗の機会をうかがっていた。

1569年、播磨の赤松義祐(あかまつ・よしすけ)を救援する名目で兵を動かし、義祐と敵対する赤松政秀(まさひで)を攻撃した。
ところが政秀は懇意にしていた将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)に救援を要請。義昭の命で織田信長が援軍を出し、それに乗じて宇喜多直家も反旗を翻し、宗景は挟撃を受け窮地に陥った。
しかし織田軍は背後を三好家に突かれるとすぐに撤退し、宗景はすかさず政秀を攻め立てて降伏させ、孤立した宇喜多直家もやむなく浦上家に帰参した。

1571年、宗景は三好家や山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)に率いられた尼子残党と連携し、毛利軍を相手に優勢に戦いを進めた。
しかし毛利元就は北九州での大友宗麟(おおとも・そうりん)との争いに見切りをつけると、兵を本州に引き上げ浦上軍に対して反転攻勢に転じた。
そこで宗景は(赤松政秀を通じて?)足利義昭に仲介を頼み毛利家と和睦し、さらに織田信長からは備前・播磨・美作の支配権を認める朱印状を得た。
浦上家はここに最盛期を迎えたが、それはここまで宗景に協力してきた小寺家や、信長の手先として激しく争ってきた別所家ら東播磨の大名らを臣下扱いにすることを意味し、彼らの反感を招いた。

1574年、宇喜多直家は小寺政職(こでら・まさもと)に預けられていた浦上政宗の孫に目を付け、擁立すると再び謀叛を起こした。
直家は前回の反省を活かし、美作や備前の国人衆に事前に根回ししており、次々と浦上家から離反させた。
さらに毛利軍も兵を挙げ三村家を滅ぼすと、もはや宗景に抗す術はなく、居城を捨てて逃亡した。

宗景は一族や旧臣とともに備前でゲリラ戦を展開し、さらに幾度となく上洛し織田信長に支援を請うたが色好い返事は得られなかった。
そして1578年、味方勢力を結集しいったんは居城を奪回したものの、すぐに鎮圧され、以降は表舞台から姿を消した。
宗景の最期も判然としないが、かつて小寺家に仕えていた黒田官兵衛に招かれ、黒田家の治める筑前に移り80歳前後で没したと思われる。

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