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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―安国寺恵瓊  毛利家の暗黒司祭


※アイコンは陳敗

安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)
安芸の人(1537?~1600)

毛利家に仕えた僧侶。
安国寺は住持した寺の名で、禅僧としての正しい名は瑶甫恵瓊(ようほ・えけい)。

父は安芸武田家に仕えたが、5歳の時に毛利元就によって滅ぼされたため、恵瓊は安国寺に逃れ出家した。
師が元就の嫡子・毛利隆元(もうり・たかもと)と親交があったため、その縁で毛利家に仕えるようになった。
大友宗麟(おおとも・そうりん)や朝廷への交渉役を務める他、軍勢を率いることもあった。
将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は後に毛利家のもとへ落ち延びるが、恵瓊は再三にわたりそれに反対し、織田信長との同盟を主張したという。

一方で1573年、毛利家の家臣に宛てた手紙で「信長の世は3年から5年は続くが、その後は高転びするだろう。木下藤吉郎という者は大した人物だ」と記しており、後の信長の失墜と秀吉の躍進を見事に言い当てている。

1582年、毛利軍が羽柴秀吉と備中高松城でにらみ合いをするさなか、信長が本能寺で討たれた。
秀吉はその事実を隠し毛利家との和睦を結び撤退した。その際に毛利家の窓口として積極的に和睦をまとめ上げたのが恵瓊である。
秀吉が明智光秀を討ち、対抗勢力を次々と下し天下人への道を上り始めると、1585年、毛利家はいち早く秀吉への臣従を決めた。恵瓊はその時も交渉役を務めている。

大いに秀吉に気に入られた恵瓊は毛利家から離れ秀吉の側近になり、四国制圧後には伊予和気2万3千石を与えられ、1586年の九州制圧後には6万石に加増され僧侶ながら大名となり、外交、検地、戦と全面的に活躍した。
特に肥後国人一揆では毛利軍を率いて第二陣として出撃し、国人衆をあるいは調略し、あるいは暗殺し一揆を迅速に鎮圧した。
文禄・慶長の役でも小早川隆景とともに参戦。戦働きの他、僧侶らしく現地の子供に日本語を教えたりもしたという。

恵瓊は豊臣家と毛利家の橋渡し役もしていたが秀吉、小早川隆景が没すると毛利家は吉川広家(きっかわ・ひろいえ)ら反豊臣派が台頭した。
しかし1600年、関ヶ原の戦いでは懇意にしていた石田三成にいち早く通じ、西軍の総大将として毛利輝元(てるもと)を担ぎ上げることに成功。
本戦にも出陣したが、吉川広家は裏で徳川家康と内通しており、毛利・安国寺軍の前に布陣したまま動かず、両軍は参戦できずに合戦は終結した。
恵瓊は逃亡したが家康の娘婿・奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の兵に捕らえられ(捕らえたのは長篠の戦いで著名な鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)の子だという)石田三成、小西行長(こにし・ゆきなが)ら西軍の主力とともに斬首された。

なお戦後、毛利家はいったんは取り潰されかけたが、吉川広家が奔走し安芸一国への減封で存続させている。

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