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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―尼子義久  無抵抗の当主

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戦国列伝―尼子義久  無抵抗の当主


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尼子義久(あまご・よしひさ)
出雲の人(1540~1610)

出雲の大名・尼子晴久(はるひさ)の嫡子。
1560年、父が急逝したため家督を継いだ。晴久は当時、地盤固めのため有力な親族を暗殺し、国人衆にも強硬な態度をとっており、死を契機に抑圧されていた不満が一気に噴出した。
また毛利元就とは石見銀山を争っていたが、晴久の死を伏せて和睦を結んだものの、元就は晴久の死を察知しており、あえて和睦を受け入れ、裏で尼子家の不穏分子に調略を仕掛けた。
さらに元就は和睦の条件として、石見への不干渉を受諾させた。これにより石見で毛利家に反乱していた国人衆が、尼子家の後ろ盾を失い孤立。反乱を支援していた尼子家の家臣らも援軍を望めなくなった。

義久は北九州の大友宗麟(おおとも・そうりん)と同盟を結び元就に対抗したものの、1562年には重臣の本城常光(ほんじょう・つねみつ)が毛利家に寝返り、牛尾久清(うしお・ひさきよ)らは出雲に撤退。赤穴家、三刀屋家などの国人衆は戦わずして次々と毛利家に降った。
外堀を埋められるように尼子家は孤立を深めていき1565年、ついに居城の月山富田城を包囲された。
城の守りは固く、元就は力攻めを早々に諦めると、兵糧攻めに切り替えた。
兵糧が減るにつれ、尼子家に代々仕えてきた家老らも一人また一人と毛利家に降っていき、義久も疑心暗鬼にかられ宇山久兼(うやま・ひさかね)を謀叛の疑いで誅殺するなど、混乱に拍車を掛けた。

そして1566年11月、義久はついに開城降伏し、戦国大名としての尼子家は滅亡した。
義久と2人の弟は助命され、当初は幽閉されたものの、後には客将扱いを受けた。
後年、山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)らがかつて晴久が粛清した一族の末裔である尼子勝久(かつひさ)を擁立し挙兵した時も、義久ら三兄弟は沈黙を守った。

1610年、義久は71歳で没した。
男子がなかったため、毛利家の意向により甥が跡を継ぎ、尼子家は幕末まで毛利家の家臣として存続した。

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