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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―村上武吉  最大最後の海賊

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戦国列伝―村上武吉  最大最後の海賊


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村上武吉(むらかみ・たけよし)
伊予の人(1533~1604)

村上家は能島、来島、因島の三島に分かれて勢力を築き、武吉は能島村上家の当主であることから能島(のしま)武吉とも呼ばれる。

幼い頃に祖父を暗殺されたため、難を避けて能島を去り肥後に潜伏した。
長じると叔父の支援を受けて能島に戻り当主の座につき、長年争ってきた来島村上家の娘をめとって和睦し、村上三島の筆頭格となった。

1555年、毛利元就と陶晴賢(すえ・はるかた)による厳島の戦いでは去就を迷ったものの、村上家と縁戚でもある毛利家の家臣・乃美宗勝(のみ・むねかつ)から受け取った元就の「1日だけ船を貸して欲しい」とだけ記された書状を意気に感じ、水軍を参戦させ毛利家の勝利に貢献した。
以降も毛利家との関係は良好で、海戦や交易に協力し、瀬戸内海の制海権を握り、通行料を取り立て大いに栄えた。

だが1569年、毛利家が九州から撤退すると、大友家や三好家に接近し、大友水軍の通過を見逃したりもした。
交戦こそしなかったものの1571年、浦上家に協力し毛利軍の背後を脅かすとついに元就の堪忍袋の緒も切れ、小早川隆景が能島に攻撃を仕掛けた。
来島・因島村上家もそれに加わったため能島家は孤立し、翌年まで包囲され海路を封鎖される憂き目にあった。
明確な時期は不明だが、他家からの支援も受けられないと悟った武吉はやがて毛利家と和解し、毛利家と織田信長との戦いに水軍を派遣するまでに関係は修復された。

その後、織田家の中国方面軍を率いる羽柴秀吉に調略され、能島家と来島家が寝返るという風聞が立った。
乃美宗勝がまたも武吉の説得にあたり、実際に来島家は寝返ったものの武吉は毛利方に留まり、来島を攻略してみせた。
しかし1582年、信長が本能寺で討たれ、秀吉と毛利家が和睦したため、来島を返還するよう求められたが、武吉はこれを拒否した。
さらに秀吉の四国攻めへの派兵も断ると再び小早川隆景の攻撃を受け、能島を強制的に立ち退きさせられ、隆景の所領に身柄を移された。

隆景が筑前へ移封になると武吉も従い、隆景が没し小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が跡を継ぐと、毛利家に身柄は移された。
能島村上家の家督を継いだ嫡子の村上元吉(もとよし)は、小早川家のもとで文禄・慶長の役に出陣し活躍したが1600年、関ヶ原の戦いに際し西軍に味方し、加藤嘉明(かとう・よしあき)の居城を攻めるも戦死した。
毛利家も関ヶ原を境に周防・長門2ヶ国に減封され、武吉もそれに従ったが、徳川幕府により制海権を掌握されたため村上水軍は事実上の崩壊を遂げた。

1604年、武吉は72歳で没した。
家督は孫の村上元武(もとたけ)が継ぎ、毛利家の船手組として村上家は続いた。

ルイス・フロイスに「日本最大の海賊」と評されたように創作等では海賊然としたイメージを抱かれがちだが、村上家は結束のためにたびたび連歌会を催すなど教養深い一面も持っている。
また武吉が著したとされる海戦の兵法書「村上舟戦要法」は、実に300年後の日露戦争で海軍中将の秋山真之が参考にし、バルチック艦隊の撃破に一役買ったと言われている。

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