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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―亀井茲矩  舶来趣味


※アイコンは金環三結

亀井茲矩(かめい・これのり)
出雲の人(1557~1612)

尼子家に仕える湯家の長男として生まれる。
1566年、毛利元就によって尼子家が滅ぼされ浪人となった。放浪時代の詳細は不明だが、京に潜伏し尼子家残党の山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)や尼子勝久(あまご・かつひさ)と合流したと思われる。
長じると尼子家再興を目指す鹿之助、勝久とともに戦い、鹿之介の養女をめとり、妻の実家である亀井家を継いだ。

尼子残党軍は中国地方へ版図を広げようとする織田信長に降伏し、中国方面軍を率いる羽柴秀吉の指揮下に入った。
だが1578年、信長の方針転換により孤立した残党軍は、毛利軍に上月城を包囲され勝久は自害、鹿之介も処刑されてしまう。茲矩は秀吉のもとにいたため無事で、以降は残党軍を率いた。
茲矩は24歳の若さで前線の城を預けられ、中国大返しの際には宮部継潤(みやべ・けいじゅん)とともに毛利家への抑えとして残されるなど早くから秀吉の信任を得た。
その後は豊臣政権で行政手腕も発揮し、文禄・慶長の役では水軍を任された。

1598年、秀吉が没すると機を見て徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
本戦の勝利後に鳥取城を攻めたが落とせず、敵将の斎村政広(さいむら・まさひろ)を寝返らせるとその助けを得て城下を焼き落とし、強引に城を陥落させた。
家康はむやみな放火に気を悪くしたが、政広が焼き討ちの首謀者として切腹を命じられたため、茲矩にお咎めはなかった。
これは茲矩の讒言による工作とする説もある。

戦功により因幡鹿野に3万8千石を与えられ、以降は政治手腕を大いにふるい、また日本海側の大名としては異例の南蛮貿易を行うなど、先見性を示した。
1582年のこと、茲矩はかねてから出雲に領地を得ることを所望していたが、中国大返しに際し毛利家と和睦したため、毛利領の出雲を得ることは不可能となった。
秀吉に代わりにどこに領地が欲しいかと問われた茲矩は、琉球を領地にもらいたいと申し出た。当時は島津家の管理下にあったためやはり実現は難しかったが、秀吉は代わりに扇に「亀井琉球守殿」と記し褒美に与えた。
この扇は文禄の役で朝鮮の将・李舜臣(りしゅんしん)が奪った戦利品の中に含まれており、逸話が真実だと確かめられた。
その他にも居城をインドの古代都市と同じ「王舎城」と名づけたり、明領の「台州守」を自称したりと、茲矩の海外への興味や傾倒は昔からのものだったという。

1612年、56歳で没した。
亀井家は息子の代に出雲へ転封となり、茲矩の悲願は死後に叶えられた。

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小金沢
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非公開

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