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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―足利氏姫  誇り高き姫公方


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足利氏姫(あしかがうじひめ)
相模の人(1574~1620)

関東の将軍家とも呼ぶべき古河公方の第5代である足利義氏(よしうじ)の娘。母は北条氏康の娘。
氏姫は名前ではなく「足利家の姫」という意味であるとも言われ、院号の徳源院(とくげんいん)でも知られる。

1583年に父が没すると、弟が早逝していたため古河城主の座を10歳で継いだ。彼女が第6代古河公方に数えられることはないが、立場は実質的に古河公方と同等であったと思われる。
父と同じく北条家の関東支配における傀儡として用いられたが1590年、豊臣秀吉により北条家は滅ぼされた。
古河城も没収され、古河公方の館が置かれた鴻巣御所の周辺わずか300石だけを与えられた。

翌年、名家の血が途絶えるのを惜しんだ秀吉は、義氏の大叔父でかつて小弓公方を自称し古河公方と対立した足利義明(よしあき)の孫である足利国朝(くにとも)と氏姫を結婚させ、喜連川を与えた。
これにより古河・小弓両家は80年ぶりに統一され、国朝は喜連川に移り住んだものの、氏姫は古河公方嫡流の意地から、鴻巣御所に居を構え続けた。

1593年、国朝が文禄の役への出陣を命じられ、行軍中に病死した。
氏姫は国朝の弟である足利頼氏(よりうじ)と再婚し一男一女をもうけた。
1600年、関ヶ原の戦いで頼氏は中立を保ったが、戦後にすかさず徳川家康に戦勝祝いを送ったため喜連川の安堵と加増を受け、後の喜連川藩の成立につなげた。
頼氏は代々の鎌倉公方が就いた官位を自称するなど権威付けに勤しみ、家康もまた名家の血統を重んじそれを黙認し、5千石にも満たない小身ながら10万石の大名格の扱いをし、皇族や将軍家が用いた「御所」の尊称を許した。

だが氏姫は変わらず鴻巣御所で暮らし続け、1620年に同地で没した。享年46。
息子の足利義親(よしちか)も母の遺志を継ぎ、生涯を鴻巣で過ごした。
孫の足利尊信(たかのぶ)もまた祖母・父と同じく鴻巣に住んだが、1630年に喜連川藩主で祖父の頼氏が没したため、跡を継ぐためようやく喜連川に移った。
国朝の頃から姓も喜連川(きつれがわ)を用い始め、やがて「喜連川公方」の名でも呼ばれ、足利家の中で唯一、大名格として幕末まで存続した。

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