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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―甲斐姫  東国無双の戦姫

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戦国列伝―甲斐姫  東国無双の戦姫


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甲斐姫(かいひめ)
上野の人(1572~??)

豊臣秀吉の側室。
半ば伝説的な人物でその事績は信憑性が薄く、史料から確認が取れるのは「秀吉の側室に甲斐姫という人物がいた」という一点だけである。

武蔵国忍城の城主・成田氏長(なりた・うじなが)の娘。
祖母の妙印尼(みょういんに)は1584年、71歳の時に息子を人質に取られ城を北条軍に囲まれるも、降伏勧告も人質の安否も無視して籠城戦を続け、最後は和睦したものの譲歩を引き出し息子も取り戻したという女傑で、甲斐の母とあわせ女三代いずれも武勇に優れた。

両親の実家が関係悪化し2歳で母と別れたものの、継母となった太田資正(おおた・すけまさ)の娘に育てられた甲斐は長じると東国無双の美人と評され、知勇兼備でもあったため「男子であれば成田家を中興させ天下に名を轟かせたろう」と惜しまれた。

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条方に与していた成田家の忍城も2万3千の豊臣軍に囲まれた。
総大将に石田三成、麾下に大谷吉継、真田昌幸(まさゆき)・幸村父子、直江兼続、雑賀孫市、長束正家(なつか・まさいえ)、浅野長政(あさの・ながまさ)、佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とそうそうたる面子が並び、対する成田軍はわずか5百。しかも城主の成田氏長は出征中で、留守を務める城代は籠城戦のさなかに病死と、逆境に立たされていた。

三成は水攻めを仕掛け、城内は水で満たされた。さらに浅野軍が攻め寄せると、新たに大将となった城代の息子・成田長親(ながちか)は自ら迎え撃とうとしたが、甲斐はそれを押しとどめると甲冑をまとい、成田家の伝家の宝刀「浪切」を手に打って出て浅野軍を撃退した。
翌日、三成は三方からの一斉攻撃を命じたが、これも甲斐が迎撃し「我が妻にしてやろう」と挑発した敵将を射殺したという。
その翌日、北条家は秀吉に降り戦は終わった。忍城はなおも籠城を続けたが、氏長が秀吉の使者として戻り開城を指示したため、ようやく城を明け渡した。

余談ながらこの時、祖母の妙印尼は息子らが北条方についたため家名存続(成田家ではなく嫁いだ由良家)のために自ら兵を率いて前田利家の傘下に入り、秀吉から息子の助命を許されており、その際の朱印状は息子ではなく妙院尼に宛てられたという。

成田家の身柄は蒲生氏郷(がもう・うじさと)に預けられ、蒲生家が会津に転封になるとそれに従った。
葛西大崎一揆の折、氏長は出陣し甲斐らは福井城を守った。すると家臣の浜田十左衛門(はまだ・じゅうざえもん)・浜田将監(しょうげん)兄弟が謀叛を起こし、氏長の妻らを殺した。浜田勢は2百、甲斐に味方するのは十数人だったが「逆賊の非人め。忠義のためなら命を惜しまぬ関東武士の手並みを見よ」とひるまず斬り付けると浜田勢の動揺を呼び、馬で逃げる十左衛門を追撃し首を獲った。
さらに謀叛を知って引き返してきた氏長と合流すると城を包囲した。浜田将監は逃走を図ったが甲斐に見つかり、右腕を斬り落とされた上に捕らえられ、磔となった。

甲斐の武勇と美貌を伝え聞いた秀吉は側室として招いた。
その後の事績は不明だが1598年、醍醐の花見の際に甲斐が詠んだと思われる歌が残っており、同年に没した秀吉の側にいたと思われる。
一説にはその後の豊臣家を牛耳る淀殿(よど)の信頼を得て隠密を務めたとも、豊臣秀頼(ひでより)の娘・天秀尼(てんしゅうに)の養育係を務めたともされる。
特に天秀尼は1615年、大坂城の落城の際に何者かに助けられ脱出しており、没後に葬られた墓の隣には女性の従者の墓があるのだが、形状や戒名から高貴な身分の人物と思われ、その従者こそが甲斐だとも推測されている。

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