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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―本願寺顕如  一向一揆の指導者



顕如(けんにょ)
摂津の人(1543~1592)

本願寺第11世。ゲーム「信長の野望」の影響で本願寺(ほんがんじ)顕如、本願寺光佐(こうさ)の名でも著名だが、あくまで正式名として用いたのは「顕如」のみで、本願寺は姓ではなく本名も大谷(おおたに)光佐である。

1554年、父の死により12歳で本願寺を継ぎ、祖母の補佐を受けて教団を切り回した。
当時、本願寺勢力は父の代に進めてきた一向一揆が全国ではびこり、京の公家や細川家ら名門とも通じ大名にも匹敵する力を蓄えていた。

だが足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛を果たした織田信長は、僧侶が武士よりも権力を持った状態を厭い、強く迫害したため1570年、両者は激突した。
やがて信長の傀儡にされた足利義昭が全国に呼びかけ「信長包囲網」を布くと、本願寺もそれに加わり織田軍を大いに苦しめた。

しかし1573年、主力を担っていた武田信玄(ちなみに信玄の正室の妹が顕如の正室であり、顕如と信玄は義兄弟にあたる)が急死すると包囲網は崩壊し、反織田勢力は次々と駆逐されていき、1580年、朝廷の仲介により顕如は信長と和睦し、本拠地の石山本願寺を退去した。

その後、信長も没すると後継者となった豊臣秀吉と顕如は和解し、石山に戻った。
1592年に顕如は没したが、石山退去に反対した嫡子の教如(きょうにょ)ではなく三男の准如(じゅんにょ)に後を継がせたため、教如派と准如派は対立した。
1602年、徳川家康が教如に寺地を寄進したため、教如派は独立し東本願寺を建立した。
准如の率いるもともとの本願寺は西本願寺と呼ばれるようになり、21世紀の現在もなお両派は分裂したままであり、三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の力を弱めるため分裂をそそのかしたとも言われている。

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