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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―山名豊国  律儀すぎる男


※アイコンは王子服

山名豊国(やまな・とよくに)
但馬の人(1548~1626)

母は室町幕府の管領・細川高国(たかくに)の娘で、名門・但馬山名家の次男に生まれた。
1560年に父が没し、兄も因幡山名家を継いでいたが、豊国は家督を継承されないどころか兄と家老の武田高信(たけだ・たかのぶ)の陰謀により追放された。

その後、兄が没すると山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)の援助を得て因幡山名家の家督を継いだが1573年、毛利家の吉川元春(きっかわ・もとはる)に攻められ降伏した。
しかしその裏では織田信長によしみを通じ、1580年に守る鳥取城を羽柴秀吉に包囲されると、単身で秀吉のもとへ赴き降伏した。
一説に豊国の巧みな指揮に手を焼いた秀吉が、妻子を人質に取り降伏を誘ったともいう。

豊国は秀吉の鳥取城攻略に協力したが、「三木の干殺し、鳥取の飢殺し」と呼ばれた凄惨な兵糧攻めで殺された旧臣たちに気が咎めたのか、戦後には仕官の話を断り浪人となった。
だがその後も秀吉や徳川家康と親交を厚くし、朝鮮出兵の際には秀吉に同行するなどした。

1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき亀井茲矩(かめい・これのり)の指揮下で活躍し、翌年には旧領の但馬に6千石を与えられた。
この頃には但馬山名家が事実上断絶していたため、豊国が山名家の嫡流を継いだことになる。
前半生は苦労を重ねたが、晩年は名家として徳川家に遇され1626年に79歳で没し、子孫も高家(貴族)として存続した。


~~律儀すぎる男~~
名家の御曹司だから、というだけでは済まされない度を越して律儀な豊国の逸話をいくつか紹介する。

徳川家康とともに斯波義銀(しば・よしかね)の屋敷を訪れた際、豊国は卑屈とも取れるほど慇懃な態度で義銀に接した。
家康は「義銀は足利将軍家の一門とはいえ分家にすぎない。お前は新田家の嫡流で守護も務めていたのになぜそうも卑屈なのだ」と苦言を呈した。家康は新田家の分家を称しており、れっきとした新田嫡流の豊国の態度に業を煮やしたのだろう。

関ヶ原の戦い後、旧領に復した豊国はかつて自分を追放した武田高信の遺児を探させた。積年の恨みに報いるのかと思いきや、逆に遺児を召し抱えた。
豊国は山中鹿之介らの援助を得て高信の守っていた城を奪い、その責任を取り高信は切腹しており(豊国が暗殺したとの説もある)、恨みに思うどころか豊国は遺児の行方を気に病んでいたのである。その後高信の子孫は代々、山名家に仕えたという。

征夷大将軍になった家康に謁見した際、豊国はあまりに古びすぎてあちこちほつれ、黒光りしている羽織をまとっていた。
家康がなぜ古着を使うのか尋ねると、室町幕府第10代将軍から山名家に贈られた由緒ある物だと豊国は答えた。
10代将軍の在位は実に百年近く前のことである。家康は「豊国は古い恩義も忘れない律義者だ」と賞したという。

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