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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―三好長逸  三好三人衆の筆頭

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戦国列伝―三好長逸  三好三人衆の筆頭



三好長逸(みよし・ながやす)
阿波の人?(??~1573)

三好三人衆の筆頭格。血縁は諸説あり三好長慶(ちょうけい)の従叔父とも三好政康(まさやす)の兄弟とも言われる。
長慶からは一族の年長者として信頼され、政治・軍事・外交全てに辣腕をふるった。

長慶が主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)を追放し実権を奪うと、長逸は三好軍の主力を率い細川軍や足利義輝(あしかが・よしてる)と戦った。足利義輝とは争っては和睦しを繰り返したが、和睦のたびに長逸が接待役を務めている。
1560年には三好一族や重臣の誰よりも早く従四位下に叙せられ、長慶の子・三好義興(よしおき)が京に常駐するとその留守を任されるなど、長慶の信任はますます厚くなった。

三好義興と長慶が没し、家督を長慶の甥にあたる三好義継(よしつぐ)が継ぐと、長逸は政康、岩成友通(いわなり・ともみち)ら三人衆や重臣の松永久秀(まつなが・ひさひで)とともにそれを支え、障壁となっていた足利義輝を暗殺した。
だが1566年には松永久秀と三人衆は対立し、久秀はかつて三好家によって地位を奪われた元の河内守護・畠山高政(はたけやま・たかまさ)らと結託した。
またこの頃に長逸は京を追放されたルイス・フロイスらを保護し、フロイスは著書「日本史」に「長逸は生来善良で教会の友人」「天下の4人の執政の一人で堺にきわめて豪華な邸宅を有する」などと記している。

三人衆は戦いを有利に進め久秀の居城を包囲したが、戦線が膠着するうちに、実権を三人衆に奪われていた三好義継が久秀のもとへ出奔してしまった。
勢いを得た久秀は、東大寺に布陣した三人衆を襲い、後に天下の三大悪事に数えられる大仏殿の焼き討ちを敢行し、さらに長逸の嫡子を討ち取った。
三人衆は足利義栄(よしひで)を14代将軍に就任させて後ろ盾を得たが1568年、かつて三人衆が追放した足利義昭(よしあき)を擁立し織田信長が6万の大軍で上洛を開始した。

三人衆は近江の六角義賢(ろっかく・よしかた)や紀伊の国人衆、高野山ら各地の反織田勢力と結託し防戦に努めたが、織田軍の進撃を止めることはできず、六角家は鎧袖一触で滅亡、足利義栄は重病で保護されていた四国から出ることもかなわずに急死、さらに三好義継と松永久秀は織田家に降伏と、信長はあっという間に上洛を果たし、足利義昭を15代将軍に据えると、三人衆も各個撃破した。

畿内を逐われた三人衆の勢力圏は阿波にまで後退したが1570年、摂津で荒木村重(あらき・むらしげ)が織田家に反旗を翻すと、長逸は三好家の筆頭家老・篠原長房(しのはら・ながふさ)とともに四国軍を率いて摂津に軍を進めた。
織田軍はなおも優勢だったが、石山本願寺に突如として背後を襲われ、さらに浅井・朝倉家も兵を進めたため戦況は逆転し、三人衆は摂津、河内の奪回に成功した。

しかし阿波で篠原長房が三好長治(ながはる)に殺されるなど内乱が続き、三好家は追撃に転じることができなかった。
1573年には傀儡の立場に不満を抱いた足利義昭が蜂起し、三好義継、松永久秀も加わり信長包囲網を布いたものの、上洛戦のさなかに武田信玄が急死したのを機に包囲網はあえなく崩れた。
足利義昭は追放され、三人衆の岩成友通は戦死。浅井・朝倉家も相次いで滅ぼされるともはや三好家に抵抗する力はなく、三好義継は敗死、三好政康は行方不明、三好長治は内乱で死亡、松永久秀は信長に降るもすぐに反乱して戦死と、三好家の主だった者は長慶の叔父で信長に降った三好康長(やすなが)ら数名を除き、いずれも死に絶えていった。

長逸は織田軍に敗れ摂津中嶋城から逃れ出たのを最後に消息を絶った。その際に戦死した、あるいは隠居した、捕らわれ幽閉されたとも伝わるが判然としない。

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