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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―長束正家  五奉行・最年少


※アイコンは彭羕

長束正家(なつか・まさいえ)
近江の人(1562~1600)

豊臣政権の五奉行の一人。
もともとは水口家、または大蔵家の生まれで、居城を落とされ長束村に移り改姓したという。
算術に優れはじめは丹羽長秀(にわ・ながひで)に仕える。
1585年、長秀が没すると丹羽家は不正会計を理由の一つに大減封を命じられた。この時、正家は帳簿を手に整然と反論し、感心した豊臣秀吉は直臣として取り立て奉行衆に抜擢したという。

豊臣家では財政を一手に担い、直轄領の管理や太閤検地を取り仕切った。
九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役では全国から参戦した20万を超える軍勢の兵站を任され、滞りなく兵糧輸送を行い、また小田原周辺の米3万石を買い占め兵糧攻めにも貢献した。家臣は甲斐姫の守る忍城攻めにも加わったという。
秀吉からの信頼厚く、また人質として上洛した徳川秀忠の出迎えを担当したり、本多忠勝の妹をめとったりと徳川家との縁も深かった。
1595年、出身地の近江水口に5万石(後に12万石に加増)を与えられ大名に、また最年少で五奉行にも列した。

1600年、関ヶ原の戦いでは同じく五奉行の石田三成に従い、作戦立案に関わったが、慣れない軍事や策謀面ではその才能は発揮されず、家康の伏見城入城の阻止、家康暗殺、人質作戦など、ほとんどの策は不発に終わった。
本戦では毛利軍と並んで出陣したものの、毛利家存続のため裏で家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が、毛利・長束両軍の前に布陣したまま動かず、参戦できないまま西軍は敗北し撤退した。

正家はどうにか居城まで落ち延びたが、寄せ手の亀井茲矩(かめい・これのり)、池田長吉(いけだ・ながよし)の本領は安堵するという口車に乗って城から出たところを捕縛され、あえなく処刑された。享年39。なお財産は池田長吉に全て奪われたという。

子供らは母が本多忠勝の妹とあってか累は及ばず(しかし母は奇しくも夫と同年に産後の肥立ちが悪く没した)他家に仕えて生き長らえ、末子の還誉岌閑(げんよ・きゅうかん)は近江水口の寺の住持となり、徳川家光と親交を結んだという。

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