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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―蜂須賀家政  阿波の古狸


※アイコンは留賛

蜂須賀家政(はちすか・いえまさ)
尾張の人(1558~1639)

豊臣秀吉の腹心で蜂須賀小六(ころく)の通称で知られる蜂須賀正勝(まさかつ)の嫡子。
父とともに若い頃から秀吉の下で戦った。
1585年、四国攻めで正勝は大功を挙げ、秀吉は阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近のままでいたいと辞退した。
しかし褒美なしともいかず、息子の家政に阿波18万石が与えられ、28歳で大名に列した。
一説に阿波踊りは後に徳島城を築いた家政が「城の完成祝いに好きに踊れ」とお触れを出したのが発祥ともいう。

その後は翌年に没した父に代わり数々の戦で武功を立てた。
しかし1597年、慶長の役では孤立した浅野幸長(あさの・よしなが)を救出したものの反撃に転じず、また戦線縮小を提案したことが秀吉の逆鱗に触れ、本土に呼び戻された挙句に蟄居と蔵入地の没収を命じられた。

その恨みもあってか秀吉の死後には徳川家康に接近し、息子の蜂須賀至鎮(よししげ)と家康の養女を縁組させ、また石田三成の襲撃事件に加わるなど親徳川派、武断派の典型例となった。
1600年、関ヶ原の戦いでは開戦を前に西軍により高野山へ追放されたが、至鎮が東軍に加わり活躍したため所領を安堵され、間もなく家督も譲り隠居した。

1614年からの大坂の陣では豊臣家から密書で参戦を促されるも「自分は無二の関東方」と拒絶し、自ら駿府にまで出向き家康を訪ねて密書を届けさえした。
至鎮も無論のこと東軍に加わり、戦後には淡路一国を加えられ25万石に加増された。

1620年、至鎮が35歳で没すると、10歳で跡を継いだ孫の蜂須賀忠英(ただひで)の後見を幕府から命じられ、1629年に忠英が成人するまで政務をとった。
晩年は戦国を知る長老格として徳川家光に招かれ御伽衆も務めた。家光に父同然に慕われた伊達政宗は家政を「阿波の古狸」と評したという。

1638年、81歳で没した。
蜂須賀家は後に幕府から養嗣子を迎え嫡流こそ途絶えたものの、最終的には将軍家の直系が当主となるなど、かえって徳川家からは一族同然に見なされ、明治期まで続いた。

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小金沢
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