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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―豊臣秀長  秀吉の片腕


※アイコンは荀彧

豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)
尾張の人(1540~1591)

豊臣秀吉の弟。秀吉とは父が同じか否か判然としないが、兄弟仲はすこぶる良く、秀吉は弟を片腕として生涯にわたり信頼し、秀長は兄が関白に上っても正面から異を唱えられる数少ない人物だった。

秀吉は秀長が幼い頃に家を出ており、兄弟が関係を深くしたのは秀長が兄に仕え始めた1564年頃と推定される。
秀吉が出陣している間の留守居役から始まり、次第に重要な務めを任されていった。1573年頃に秀吉と織田信長から一字ずつもらい羽柴長秀(はしば・ながひで)と名乗った(信長の死後に上下を入れ替え秀長に改名した)と思われる。
秀吉が中国地方の司令官になると、秀長は山陰道と但馬方面を任され、この頃に秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状で、信頼の代名詞として秀長の通称である小一郎(こいちろう)を用いるなど、秀吉陣営でも副将格の人物に成長した。

中国攻めではあるいは別働隊を率い、あるいは秀吉とともに協力し快進撃を続けた。
1582年、本能寺の変で信長が討たれると撤退を余儀なくされるが、秀吉はいわゆる「中国大返し」で明智光秀を討ち果たし、一躍、天下人への道を上り始めた。
1583年、賤ヶ岳の戦いに勝利すると但馬・播磨の2ヶ国を、1585年に紀州征伐を終えると紀伊・和泉などに約64万石を与えられた。
同年、四国征伐では病に倒れた秀吉に代わり、10万の大軍を率いた。長宗我部元親の激しい抵抗にさらされ、また毛利・宇喜多との連合軍のため侵攻は大いに遅れ、秀吉は援軍を出すか打診したが、秀長はそれを断り苦戦の末に長宗我部家を降した。
報奨として新たに大和を与えられ石高は100万石に上り、さらに後には従二位大納言の官位も得て「大和大納言」と呼ばれた。
大和は長らく筒井家が治めた土地で、寺社勢力も盛んだったが秀長は問題なく統治し、また秀吉の居城の隣国でもあり、晩年は疑り深くなった秀吉が、隣国に百万石を与えながら弟の反乱を全く考慮していないことは、秀長への信頼の厚さを感じさせる。
だがこの頃から秀長は体調を崩しやすくなったようで、湯治に行った記録が急増する。

1586年、これまで秀吉と敵対し上洛を拒み続けてきた徳川家康が、ようやく大坂に赴き、秀長の屋敷に宿泊した。
その晩、秀吉が自ら現れ家康に天下安寧のため臣従を求めたという、まるで創作の出来事のような逸話が複数の文献で確認される。
同年、九州で台頭する島津家に苦しめられた豊後の大名・大友宗麟(おおとも・そうりん)が、豊臣軍の出馬を願い上洛した。
秀吉は歓迎し「内々の儀は千利休が、公儀のことは秀長が存じ候」と述べたという。
九州征伐軍は先陣を切った仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が失策し大敗したものの、後続の秀長・秀吉率いる20万の大軍は圧倒的な兵力差で島津軍を破り、九州統一も果たした。

しかし秀長の病はいよいよ悪化し、1590年の小田原征伐には参戦できず、翌1591年1月、52歳で没した。
男子がいなかったため養嗣子となっていた甥(姉の子)の豊臣秀保(ひでやす)が跡を継いだが彼も4年後に早逝し、秀長の家系は断絶した。
秀吉は豪奢な暮らしを好んだが、秀長は蓄財を重んじ、死後には金子が5万6千枚、銀子は2間四方の部屋が満杯になるほど備蓄されていたという。

温厚な人柄で、諸大名と秀吉との間の折衝役も務めていた秀長の死を契機に、秀吉は独断専行を深め、判断の誤りを随所に見せていく。
秀長の死からわずか1ヶ月後には千利休に切腹を命じ、文禄・慶長の役を強行し諸大名の怨嗟を買い、後継者に迎えていた豊臣秀次(ひでつぐ)も殺し、しかも多くの大名を連座で処分するなど、後の豊臣家滅亡の引き金となる失策を次々と打った。
そのため秀長がもし長命を保っていれば、あれほど早く徳川家康の台頭を招くことも、豊臣家を滅ぼすことも無かったろうと言われる。

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