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夢想大蛇

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戦国列伝―豊臣秀次  殺生関白の汚名

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戦国列伝―豊臣秀次  殺生関白の汚名


※アイコンは孫綝

豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)
尾張の人(1568~1595)

豊臣秀吉の姉ともの長男。秀吉の養嗣子となり関白まで上り詰めるも、謀叛を疑われ切腹を命じられた。

幼少期は調略のための人質として使われた。4歳の時に浅井長政に仕えていた宮部継潤(みやべ・けいじゅん)を調略するためその養子となり、宮部吉継(よしつぐ)を名乗らされた。(本文では秀次で統一する)
継潤はその後、秀吉の重臣となり、また秀次の傅役に任じられた宮部家の田中吉政(たなか・よしまさ)は、秀次の腹心として長きにわたり補佐することとなる。

次いで時期は不明だが三好康長(みよし・やすなが)の養子になり三好信吉(のぶよし)と改名。
1582年頃に康長が第一線を退き、その嫡子も消息を絶つと、河内北山2万石とともに実質的に三好家を継いだ。
父の弥助(やすけ)は百姓の身から名家の跡継ぎが生まれたのを喜び、自らも三好姓に変え三好吉房(よしふさ)を名乗った。
また秀次は本能寺の変後に織田家の重臣である池田恒興(いけだ・つねおき)の娘を正室に迎えており、これも調略の一環である。

秀次は弱冠15歳ながら、親類の少ない秀吉にとって弟の豊臣秀長(ひでなが)に次ぐ一族の年長者ということもあり重用された。
しかし1585年、小牧・長久手の戦いでは徳川家康の奇襲により、岳父の池田恒興と義兄の森長可(もり・ながよし)が戦死した。
総大将を務めていた秀次は、秀吉から激しく叱責され「今後も無分別なら手討ちにする」とまで言われた。これを後の失脚の遠因ととらえる研究も多い。
その後は紀州征伐、四国征伐を無難に終え、与力大名と合わせて43万石を与えられた。
かつての安土城にほど近い近江八幡に八幡山城を築き、善政を布いたと言われ現在でも住民からは慕われている。

1587年、九州征伐では秀吉の名代として留守を預かり、1590年の小田原征伐では病身の秀長に代わり副将を務めた。
小田原城の陥落後には奥州平定を命じられ、葛西大崎一揆や九戸政実(くのへ・まさざね)の乱を鎮圧した。
織田信雄(おだ・のぶかつ)が失脚すると尾張・伊勢の旧領を与えられ石高は100万石に上り、居城を尾張清洲城に移した。

翌年、秀長が没し、さらに秀吉の嫡子・鶴松(つるまつ)も没すると、秀次は秀吉の養嗣子となり豊臣家の家督相続を約束された。
秀吉は明・朝鮮への遠征に専念するため関白の座を秀次に譲ることを考え、性急に秀次の官位を引き上げさせた。
またこの頃に5ヶ条の誓文を与え、秀吉は自らの欠点である「茶の湯、鷹狩り、女遊び」の3つを挙げ「秀吉の真似をするな」と厳命したとされる。
同年末に秀次は関白に就任したが、太閤となった秀吉は実権を渡さず、二頭政治の体制をとった。

ところが1593年、秀吉に第二子の豊臣秀頼(ひでより)が産まれ、秀次の立場は微妙なものとなる。
秀吉の喜びようは大変なもので、非公式な発言ながら「日本を5つに分け4つを秀次に、1つを秀頼に与える」「秀頼と秀次の娘(当時1歳)を結婚させる」など口走ったことが山科言経(やましな・ときつね)らの日記に残されている。

それでも表面上は良好な関係が続いたものの1595年、突如として秀次に謀叛の嫌疑が掛けられた。
秀吉は石田三成らを遣わして詰問し、出頭を命じたが事実無根と憤ってか秀次はそれを拒否した。
続いて元養父の宮部継潤や山内一豊(やまのうち・かずとよ)らかつての家老ら秀次に親しい者が懐柔すると、ようやく腰を上げ秀吉の待つ伏見城に向かった。

だが秀吉は面会を許さず、まず高野山へ入るよう命じた。秀次はすぐに剃髪し高野山へ入り沙汰を待った。
秀次の側近や妻子は監禁され、あるいは自害を、あるいは処刑を命じられ、他家に身柄を預けられる者も多くいた。
そして7月、ついに秀次にも自害を命じられた。
身柄を預かっていた木食応其(もくじき・おうご)は寺法に照らし合わせ引き渡しを阻止しようと試みたが、秀吉の怒りを恐れる衆徒と揉め、福島正則に高野山ごと取り潰される可能性もあると恫喝に等しい説得を受け、秀次も覚悟を決めたためやむなく引き渡した。

秀吉は秀次の自害だけで許さず、その妻子・侍女ら43名も処刑を命じた。
遺体はまとめて一つの穴に放り込まれ、その上に秀次の首塚を築き「秀次悪逆」と彫った。秀次は悪評が立ち「殺生関白」と呼ばれていたことから塚は「畜生塚」と蔑まれたという。

木村重茲(きむら・しげこれ)や前野長康(まえの・ながやす)ら秀吉の古参の家臣で10万石を超える大名も連座させられ、里村紹巴(さとむら・じょうは)、曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)ら武士ではない懇意の者も遠流となった。
秀次の縁戚の浅野幸長(あさの・よしなが)はまだしも、秀次に借金こそしていたが秀次家臣の縁戚でしかない細川忠興(ほそかわ・ただおき)も罪に問われ、また最上義光(もがみ・よしあき)の15歳の娘は秀次の側室になることが決まっていただけで、嫁入りもまだだったが容赦なく処刑された。
縁故の者をのきなみ処分すると、秀吉の怒りは住居にまで向かい、秀次が起居した聚楽第や、すでに京極高次(きょうごく・たかつぐ)が居城にしていた近江八幡城まで破却された。

これら度の過ぎた処罰により秀吉は諸大名に憎悪され、また徳川家康が秀吉への取りなしに奔走してやったため、後の関ヶ原の戦いの折、浅野幸長、細川忠興ら豊臣恩顧の大名の多くが家康率いる東軍につく遠因ともなった。

秀次の謀叛の意志の有無、「殺生関白」と呼ばれたとする悪評の有無は専門家の間でも意見が分かれ、いまだ決着を見ていない。

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