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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―山内一豊  山内一豊の妻の夫



山内一豊(やまのうち・かずとよ)
尾張の人(1545~1605)
 
秀吉、家康に仕え、土佐を治めた。妻・千代(ちよ)の内助の功で出世したことでよく知られている。
名前の読みは(やまのうち・かずとよ)で知られていたが、近年の研究では(やまうち・かつとよ)が正しいとされる。
 
岩倉織田家の重臣・山内家の三男として生まれる。
だが織田信長に敗れ、幼くして父と兄を失い、尾張を追われ美濃や近江を転々とした。
主君を次々と変えたが1568年頃に信長に仕え、羽柴秀吉の家臣となった。
秀吉のもとで数々の戦に参加し、多くの功を立てた。秀吉が浅井家討伐の功で長浜を与えられると、一豊も400石を分けられた。のちに豊臣家の中核となる浅野長政(あさの・ながまさ)、堀尾吉晴(ほりお・よしはる)、中村一氏(なかむら・かずうじ)らは100石であり、一豊に寄せられた信頼の厚さがうかがえる。

その後も秀吉の重要な戦には常に参加し、1585年には秀吉の後継ぎである豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)の宿老となり、長浜2万石の城主となった。
1590年には遠江掛川5万石に移され、築城の才を買われ各地の城の普請に当たった。
1595年、豊臣秀次が謀反の疑いで処刑された折にもうまく立ち回って連座を逃れ、かえって秀次の所領から8千石の加増を受けている。

1600年、徳川家康に従い、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の討伐に参加したが、石田三成が挙兵し、大軍を催して東進を開始した。誰もが徳川、豊臣のいずれにつくか迷ったが、一豊は掛川城を家康に提供し、いちはやく徳川方につくことを宣言して家康を喜ばせた。
これは事前に堀尾忠氏(ほりお・ただうじ)と進退を協議した際に、堀尾が提案したことを盗用したものとされるが、一豊の素早い決断により多くの諸大名が家康に味方したのは確かで、関ヶ原の本戦では目立った武功のなかった一豊に戦後、土佐20万石が与えられたのは、家康に高く評価されたからに他ならない。

しかし土佐は長きにわたり長宗我部(ちょうそかべ)家が治めた土地であり、旧臣たちは一豊に強く反発した。
多くの加増を受けた一豊は新規に家臣を集めなければいけなかったが、それも思うようにできず、やむなく上方から人手を募り、さらに相撲大会を口実に集めた(当時は人材登用のために行われることが多かった)長宗我部の旧臣73名を磔にして殺すなど、強硬措置を貫いた。そのため一豊は常に命の危険にさらされ、6人の影武者をつれて行動したという。
この旧臣への差別は幕末にまで続き、坂本龍馬らの決起を促す遠因となった。

1605年、60歳で没した。
余談だが、一豊は食中毒を案じて、土佐名産のカツオを刺身で食べることを禁じた。
それに対して領民はカツオの表面をあぶり、刺身ではないと主張して食べるようになり、これがカツオのたたきの起源とされる。


~妻・千代の内助の功~
一豊の妻である見性院(けんしょういん 本名は千代または、まつ)は、織田信長が馬揃え(行軍パレードのようなもの)をした際に、嫁入りの持参金(へそくりとも言われる)で夫のために名馬を買ってやり、目立った一豊は名を知られるようになった、という逸話がよく知られている。
特に戦前の教科書で、日本女性のあるべき姿として採り上げられ著名である。
また真偽は不明だが、千代紙の由来ともされる。

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