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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―織田信長  第六天魔王



織田信長(おだ・のぶなが)
幼名は吉法師
尾張の人(1534~1582)


~経歴~
戦国乱世を終焉に導いた大偉人。天下統一の野望は中途でついえたが、彼が示した道を受け継ぎ、豊臣秀吉、徳川家康らが乱世を治めたことから、統一の基礎を築いた人物と言える。

織田信秀(おだ・のぶひで)の次男または三男として生まれる。早くから嫡子とされたが、子供のころから奇矯な行動が目立ち「大うつけ」と呼ばれた。そのため父・信秀が1551年に没すると、織田家当主の信友(のぶとも)は信長の弟・信行(のぶゆき)を擁立し、家督を争うことに。
柴田勝家、丹羽長秀(にわ・ながひで)、林秀貞(はやし・ひでさだ)ら多くの重臣が信行側についたが、信長は大うつけの仮面を捨て去り、連戦連勝を重ね信友・信行を討ち尾張統一を成し遂げた。
1560年、今川義元が大軍を率いて尾張に攻め込むが、信長は圧倒的な兵力差をくつがえし、桶狭間で義元を討ち取った。義元を失った今川家は衰退し、松平元康(まつだいら・もとやす 後の徳川家康)は三河で独立し、幼なじみの信長と同盟を結んだ。

後顧の憂いを断った信長は美濃攻略に着手。義父・斎藤道三(さいとう・どうさん)を討った義龍(よしたつ)もすでに亡く、内部分裂していた斎藤家になすすべはなく、1567年に当主の斎藤龍興(さいとう・たつおき)を追放し、美濃を手に入れた。信長はこの頃から、まだ尾張・美濃二ヶ国の領主にすぎないにも関わらず「天下布武」の朱印を用い、天下統一を目指すことを宣言した。
翌年、京を追放された足利義昭(あしかが・よしあき)が信長を頼り落ち延びてくると、義昭を征夷大将軍として担ぎ上げ、上洛を開始。南近江の六角義賢(ろっかく・よしかた)を破り、都を牛耳っていた三好義継(みよし・よしつぐ)、松永久秀(まつなが・ひさひで)らは降伏し、三好三人衆は阿波へと逃れていった。京をおさえた信長はついに織田政権を誕生させた。

しかし将軍・義昭との関係はすぐに悪化し、義昭は有力大名に号令をかけ「信長包囲網」を仕掛ける。それにより朝倉義景(あさくら・よしかげ)と戦っていた信長は、妹婿の浅井長政に背後を襲われ敗走。これは信長の生涯でも数少ない敗戦である。信長は家康との連合軍で、姉川の戦いにおいて浅井・朝倉連合軍を撃破するものの、本願寺(ほんがんじ)の援軍を得た三好家の反攻や、延暦寺や長島一向一揆の蜂起に苦しめられ、やむなく浅井・朝倉と和睦を結ぶ。武田信玄も東美濃に攻め込み、家康は三方ヶ原で大敗し、窮地に陥ったものの、信玄が急死すると、運は再び信長のもとに回ってくる。

京から義昭を追放すると、浅井・朝倉を攻め、これをともに討ち取る。三好も滅亡させ、信長は一気に版図を広げることに成功した。
長島一向一揆も鎮圧し、長篠の戦いで武田勝頼(たけだ・かつより)を敗走させると、1575年には家督を嫡子の信忠(のぶただ)に譲り隠居し、安土城の築城にとりかかったが、実権は依然として信長が握っていた。
1576年、上杉謙信が信長との対決姿勢を打ち出すと、それに本願寺、毛利輝元(もうり・てるもと)、雑賀孫市、松永久秀、波多野秀治(はたの・ひではる)らが呼応し第二次信長包囲網が布かれる。しかしこれも謙信の急死により瓦解し、順次撃破されていった。

この頃には織田家の戦力は多方面に同時に軍を展開できるだけのものとなり、信長は各地に重臣を派遣し、大名と同等の権力と領地を与え、独自に侵攻を命じた。通常の大名ならば譜代の重臣や一門衆にのみ任せるものだが、徹底した能力主義の信長は、卑しい出自の秀吉や出自すら不明の滝川一益(たきがわ・かずます)、浪人あがりの明智光秀らにも実権を与えた。

1580年には長らく抵抗をつづけた本願寺も降伏、ついで1582年には武田も滅亡し、中国の毛利、四国の長宗我部、北陸の上杉ら相手にも優勢に戦いを進め、いよいよ天下統一も目前に迫ったが、1582年6月2日、明智光秀の突然の反乱により、本能寺で生涯を閉じた。
その遺体は炎の中に消えついに見つかることはなく、第六天魔王を自称した信長にふさわしい最期だった。

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