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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―平手政秀  信長を諌めて死す



平手政秀(ひらて・まさひで)
尾張の人(1492~1553)

織田信長の父・織田信秀(おだ・のぶひで)の代からの重臣で主に外交を担当した。
茶道や和歌に通じ、山科言継(やましな・ことつぐ)に賞賛されるほどだった。


1534年、信長が誕生すると傅役となり、1548年には美濃の大名・斎藤道三(さいとう・どうさん)との和睦を成立させ、さらに道三の娘・濃姫と信長の婚姻をまとめ上げた。

しかし1553年、織田信秀の死で家中が揺れる中、突如として自刃して果てた。享年62。
自刃の理由は諸説あり、創作でよく採用されるのは当時うつけ者として奇行を繰り返していた信長への諌死であったという説。
政秀の長男の乗騎を信長が所望したところ「武士には馬が必要である」と拒絶され、信長は父の政秀を逆恨みし、不仲になった末にやはり諌死した説。
信秀死後の家督争いで家中が二分され、政争に敗れた末の悶死説、と様々。

いずれにしろ信長は政秀の死後も行状を改めなかったが、沢彦宗恩(たくげん・そうおん)に開山させ政秀寺を建立し、菩提を弔った。
また政秀の子らは変わらず信長に仕え、子(孫ともされる)の平手汎秀(ひらて・ひろひで)は三方ヶ原の戦いで徳川家康の援軍に赴き戦死。長子も翌年に戦死したため平手家の嫡流は途絶えた。
筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)を追放する際に信長は「平手汎秀を見殺しにした」ことを理由に挙げており、また政秀の娘を弟・織田有楽斎(おだ・うらくさい)に嫁がせており、政秀死後の平手家を気に掛けていたことがうかがえる。

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