忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―佐久間信盛  退き佐久間



佐久間信盛(さくま・のぶもり)
尾張の人(1528~1582)

若い頃から織田家に仕える。織田信長の重臣として付けられ、家督争いでも一貫して信長のもとで戦った。
信長からも信頼され筆頭家老に等しい扱いを受け、退却戦を得意としたことから「退き佐久間」の異名をとった。
織田家の主だった戦にはすべて参戦した他、政務にも深く携わり、徳川家康と国境を接する西三河を領し、徳川家との交渉や松永久秀(まつなが・ひさひで)、筒井順慶(つついじゅんけい)らの調略も担当。さらに畿内の行政も任せられた。

だが1572年、三方ヶ原の戦いでは平手汎秀(ひらて・ひろひで)らとともに3千の兵を率い徳川家への援軍に赴くも、織田・徳川あわせて1万1千に対し2万7千で攻め込んだ武田軍に恐れをなし戦線離脱。一方で平手汎秀は手勢とともに残り、あえなく戦死させてしまう失態を演じた。
さらに翌1573年、一乗谷の戦い直前、撤退する朝倉軍の追撃を怠った家臣団が信長の叱責を受けた際、信盛は「そうは言われましても我々のような優秀な家臣団はそうは得られないでしょう」と弁明し、信長の怒りを買った。

失態が続いたが、その後も三好家との戦いや長篠の戦いで活躍し、1576年の石山合戦で指揮官の塙直政(はなわ・なおまさ)が戦死すると後任として指揮を取り、当時の織田家で最大規模の7ヶ国にわたる与力を付けられた。
しかし信盛は消極的な姿勢だったため石山本願寺との戦いは膠着し、1580年に信長自ら朝廷を動かし、和睦する形でようやくの決着を見た。

そして同年8月、信長は19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ、信盛と嫡子の佐久間信栄(さくま・のぶひで)を追放した。
信盛父子は高野山へ向かったが在住を拒否され、付き従う者も次々と減っていき、熊野にたどり着いた時には一人しか残らなかった。
追放から1年半後の1582年1月、失意のまま信盛は熊野で没した。享年55。
それで禊が済んだように信栄は間もなく帰参を認められ、織田信忠(おだ・のぶただ)に仕えた。
その際、信栄は最後まで付き従ってきた小者を武士へと取り立てたという。

尾張の土豪で織田家の筆頭格だった佐久間家が信長の鶴の一声で取り潰しにされたことは、武家社会のあり方が決定的に変わったことの象徴的な出来事であった。
また信盛の追放後、その地位を継いだのは明智光秀(信盛の追放は光秀の讒言によるという説もある)で、2年後の本能寺の変の遠因(光秀が信盛に代わり信長の近衛兵的な立場につき本能寺で襲撃できたこと、信盛の追放劇を見て危機感を覚えたこと等)となっており、歴史の皮肉を感じさせる。


~19ヶ条の折檻状~
その内容を簡単に紹介する。

01.石山本願寺との戦いを任されながら5年間なにもしていない

02.石山本願寺の降伏を待つばかりで決戦を挑まなかった

03.明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興(いけだ・つねおき)に比べて見劣る

04.柴田勝家にも見劣る

05.戦ができないなら謀略を使うか信長に意見を求めるべきなのにそれもしない

06.「本城を落とせば自然と支城は落ちる」と急に言い出したが言い訳ではないのか

07.7ヶ国の兵を使えるのにどうしてなにもできずにいるのか

08.水野家の旧領の刈谷を与えたら旧臣を追い出し新たに召し抱えてもいない。私腹を肥やしているのではないか

09.山崎でも同じことをしていまいか

10.家臣を増やさず貯蓄に回しているから戦えないのだ。諸外国の例を見るがいい

11.一乗谷の戦いの前に叱責した時、失言をしたし態度も悪かった

12.息子の信栄の罪状は書き並べたら切りがない

13.欲深く気難しく家臣も増やさない。そのうえいいかげんで親子ともども武士道を心得ていない

14.戦には与力ばかり使い自分の家臣を使わない

15.信盛の与力や家臣でさえ信栄に遠慮している。信栄は穏やかなふりをしているが綿の中に針を隠しているようなものだ

16.信長に仕えて30年経つが「信盛の働きは比類なし」と言われるような活躍は一度もない

17.三方ヶ原の戦いで負けたのはしかたないにしても平手汎秀を見殺しにし、自分の兵は一人も死んでいないのはどういうことだ

18.かくなる上は決死の覚悟で戦果を上げるか討ち死にするか好きな方を選ぶべきだ

19.もしくは親子ともども頭を丸め高野山に隠遁し許しを請え

以上のように数年の間たいした武勲もなく、そもそも天下人の信長に対し口答えをする不届き者はお前から始まったのだから、償いに最後の2ヶ条のどちらかを実行せよ。さもなくば天下が許すことはない。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R