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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―丹羽長秀  米と呼ばれた男



丹羽長秀(にわ・ながひで)
尾張の人(1535~1585)

織田信長に仕え、織田四天王に数えられる重臣。
文武両道で、何をやらせても器用にこなし家中に欠かせないことから「米五郎左」と呼ばれた。(五郎左衛門は名)


丹羽家はもともと尾張守護の斯波家に仕えていたが、衰退し鞍替えしたのか長秀は16歳の頃から信長に仕える。
「信長公記」などによると美濃の攻略戦から台頭し、上洛戦、長篠の戦い、越前一向一揆征伐など主要な戦の多くに参戦し軍功を上げた。内政手腕にも優れ安土城の普請役を務め、敵勢力の調略も行った。

1571年には8ヶ月に渡る包囲の末に開城させた佐和山城を与えられ、さらに若狭一国の統治も任された。
1581年の京都御馬揃えでは一番に入場する名誉を受け、柴田勝家に継ぐ二番家老の地位にあり、木下秀吉は改姓するにあたり、長秀と勝家の姓から一字ずつもらい「羽柴」と名乗った。
ただし軍事面では方面軍を任されることはなく、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)の補佐に過ぎず、各方面軍を任された勝家、秀吉、明智光秀、滝川一益(たきがわ・かずます)らに知行も劣った。
だが信長からの信頼は絶大で「長秀は友であり兄弟である」とまで言われ、信長の養女(姪)をめとり、嫡男の丹羽長重(にわ・ながしげ)も信長の五女を迎えていた。親子二代で信長と血縁を結んだのは家中でも長秀のみであり、また長秀の「長」も信長からの一字拝領である。
秀吉に筑前守、光秀に惟任の姓が与えられた時、長秀にも官位や名誉ある姓が与えられようとしたが「五郎左のままで結構」と断ったという逸話など、長秀と信長の関係は、三国志で主従関係にありながら親友・兄弟分であり続けた曹操と夏侯惇を思い起こさせ、曹操が「友に官位を与え家臣にはできない」と任官を渋ったものの、夏侯惇は「他の家臣に示しがつかない」と自ら任官を望んだ話と好対照ではなかろうか。

1582年、四国への出兵準備中、本能寺で信長が討たれた。だが長秀と織田信孝はちょうど部隊を離れており、主将を欠いた方面軍は動揺から四散してしまい、明智光秀と戦うことができなかった。
足踏みするうちに中国から羽柴秀吉が帰還するとそれに合流し光秀を討つことに成功するが、信孝は名目上の大将を務めたものの長秀らは羽柴軍に兵力で劣り、以降も秀吉の下につくこととなった。

清州会議でも長秀は池田恒興(いけだ・つねおき)らとともに秀吉を支持し、織田家の後継者には秀吉の意向通り織田秀信(おだ・ひでのぶ)が選ばれた。
その後も秀吉に従い、若狭に加え越前の大半と、加賀の二郡を与えられ123万石に上った。
あくまでも織田家の重臣という立場ではあったが、毛利輝元(もうり・てるもと)から長秀と、秀吉の重臣・蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)に贈られた戦勝祝いが贈答品の中身から書状の内容まで全く同じであった例から考えるに、諸将からは秀吉の一家臣と同等に見られていたようである。

1585年、51歳で胃癌により逝去した。
一説には、死期を悟った長秀は切腹し、織田家を牛耳っていく秀吉に内臓のそれも病巣部分を送りつけたともいう。
跡を継いだ丹羽長重はあれこれと理由をつけられ123万石の大半を秀吉に召し上げられたが、不屈の闘志で大名に返り咲き、丹羽家は明治まで大名として存続した。
織田四天王で大名として残ったのは丹羽家だけで、欠かすことのできない「米」の血脈が受け継がれていたことがうかがえる。

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