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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―高力清長  仏高力

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戦国列伝―高力清長  仏高力


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高力清長(こうりき・きよなが)
三河の人(1530~1608)

高力家は松平家に仕えていたが1535年に主君と父、祖父が相次いで殺され、6歳の清長は叔父に育てられた。
1552年から松平家を継いだ後の徳川家康に仕える。家康は今川家への人質として駿河に送られ、清長もそれに従った。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると家康は独立し、尾張の織田信長と同盟した。その同盟締結の際にも清長は家康に同行している。

1563年、三河一向一揆では多くの家臣が一揆方についたが清長は家康のもとを離れず、鎮圧後には仏像や経典の散逸を防ぎ、破壊された寺社を復元したため領民から「仏高力」と慕われた。
翌年には本多重次(ほんだ・しげつぐ)、天野康景(あまの・やすかげ)とともに三河岡崎の奉行に命じられその人柄から三者は「仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛」とうたわれた。

その後も遠江攻略戦、姉川の戦いなどで武功を立てた。1572年、三方ヶ原の戦いでも奮戦するが一族の者が数十名、命を落としたという。
1582年、本能寺の変で信長が討たれた時、家康は堺におり窮地に陥ったが、同行する清長らの働きにより無事に三河へ帰り着いた。この時、清長は殿軍を務め銃創を受けたという。

1584年、小牧・長久手の戦いの後に豊臣秀吉へ降伏する使者として立つと、秀吉に大いに気に入られ、以降は会うたびに豊臣姓や官位、脇差や和歌などを贈られた。
1590年、小田原征伐では北条家との交渉を担当し、戦後に家康が関東へ移封となると武蔵岩槻2万石を与えられた。同時に預け地として1万石も任されたが、慣例では自らの収入として勘定すべき預け地の1万石もそのまま年貢として家康に収めた。
また文禄・慶長の役では軍船の建造を命じられたがこの時も、余った建造費を家康に返還しようとし、感心されそのまま褒美として与えられたという。

1599年、嫡子に先立たれ、1600年の関ヶ原の戦い後に隠居すると孫の高力忠房(ただふさ)に家督を譲り隠居した。
1604年、または1608年に没した。享年はどちらも79歳とされる。
忠房もまた祖父に似て統治能力に優れ、徳川家光に見込まれて島原の乱後に同地を任され、見事に復興させている。

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