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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―酒井忠勝  将軍の右腕


※アイコンは司馬朗

酒井忠勝(さかい・ただかつ)
三河の人(1587~1662)

徳川家康の重臣・酒井忠利(ただとし)の子。
1600年、関ヶ原の戦いで中山道を進む徳川秀忠に従い、14歳で初陣を踏んだ。
1620年、秀忠の命で後継者の徳川家光の付け家老になる。

若い頃の家光は夜間にたびたび城を抜け出し、辻斬りをしているという噂が立った。忠勝が密かに後をつけると小姓のもとへ忍んで行っていた。忠勝は草履を温めて待ち、それに気づいた家光は外出を控えるようになった。

家光と弟の徳川忠長(ただなが)の間で後継者争いが起こった。家光が病に倒れた時、忠長のもとへ豪勢な料理が届けられようとするのを見て「兄が病気な時に食事ができるものか」と激怒し忠勝は料理を下げさせた。
秀忠に無礼討ちされても構いませんと釈明に行くと、逆に「お前は徳川家を支える第一の人物だ」と讃えられた。

それらのことから家光は忠勝に絶大な信頼を注ぎ「我が右手は讃岐(忠勝)、左手は伊豆(松平信綱(まつだいら・のぶつな))とまで呼び、他の家臣とは寝間着姿で話すことがあっても、忠勝と会う時には必ず正装で対したという。
また家光が駿府18万石への加増を打診すると「家康公の旧領はもったいない」と固辞され、ならばと甲府24万石を打診したがやはり断られた。
理由を聞かれた忠勝は「大禄を得れば驕りが生じます。私が驕らなくても次代の者が驕るでしょう。それに大老の私が12万石なら、私より下位の者は加増を遠慮します」と答えた。しかし晩年には危急の際に12万石では大した兵を集められず、もう少しもらっておくべきだったかとも述懐している。

1624年には土井利勝(どい・としかつ)とともに老中となり、1627年に父が没すると遺領を継ぎ、その後も各地に加増を重ね1634年には12万石に上った。
1638年、土井利勝とともに老中職を解かれ、大事を議する時のみ登城を命じられた。これが後の大老職のはじまりとなった。

1651年、家光が没し11歳の徳川家綱(いえつな)が跡を継いだ。
忠勝は諸大名を集めると「幼君が立ち、もし天下を望む者があれば好機である」と言った。保科正之(ほしな・まさゆき)がそれに応じ「いるなら名乗り出よ。踏み潰して家綱公の就任祝いにしてくれる」と続けると、諸大名は平伏した。

ある時、家綱は庭の大石を外へ出すよう命じた。忠勝は「この大きさでは塀を崩すことになり大工事になります」と断った。
松平信綱は「石が邪魔なら穴を掘って埋めてしまえばいい」と知恵を出したが、忠勝は「石はそのままにしておいても害はない。物事が全て自分の思い通りに行くと考えればのちのち難儀が生じるから、あえて家綱様の命令を断ったのだ」と返し信綱を感服させた。

1656年に四男の酒井忠直(ただなお)に家督を譲り隠居し、1662年に76歳で没した。衣服を整え正座したまま息絶えたという。

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