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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―十河存保  鬼の名を継ぐ

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戦国列伝―十河存保  鬼の名を継ぐ



十河存保(そごう・ながやす)
阿波の人?(1554~1586)

1554年、三好長慶(みよし・ちょうけい)の弟・実休(じっきゅう)の次男として生まれる。
三好実休は三好義賢(よしかた)の名でも著名だが、現在では法名の実休や三好之虎(これとら)という名が正確と考えられる。

1561年、叔父で讃岐を治めていた十河一存(そごう・かずなが)が急死し、1563年には三好家当主の三好義興(みよし・よしおき)も没し、十河一存の嫡子で後の三好義継(みよし・よしつぐ)が当主の座を継ぐことになったため、代わって存保が十河家を継いだ。
だが存保も、その兄で阿波三好家を継いだ三好長治(みよし・ながはる)も幼く、実休の旧臣で三好家の宿老・篠原長房(しのはら・ながふさ)や、その弟の篠原自遁(しのはら・じとん)が実質的に讃岐・阿波を治めた。

1566年、三好家に庇護された足利義栄(あしかが・よしひで)を次期将軍へ担ぎ上げる計画が持ち上がると、地位を脅かされた三好義継は大和の松永久秀(まつなが・ひさひで)と結び、三好三人衆らと対立した。
篠原長房は存保、三好長治とともに四国勢を率いて大和に攻め込むが、上洛した織田信長に三好義継や三人衆が降伏したため、織田軍を恐れ撤退した。

1573年、存保と長治の生母の小少将(こしょうしょう)が篠原自遁と密通し、篠原長房はそれを諌めたためかえって長治との仲が険悪となり、ついに存保の軍に攻められ戦死した。
実質的に讃岐を治めていた篠原長房の粛清と、兼ねてからの長治の悪政が国人衆の反乱を招き、さらに土佐の長宗我部家が阿波を攻撃したため、長治は讃岐から撤退した。
一方、畿内の三好義継も織田家に反逆したため信長の猛攻を受け、1575年には三好家の重鎮・三好康長(みよし・やすなが)も降伏し拠点のほとんどを失った。

1577年、長宗我部家の援助を受けた異父兄の細川真之(ほそかわ・さねゆき)が三好長治を攻め、自害に追い込んだ。
存保はなかば三好家の当主として擁立され阿波・讃岐の失地回復に務め、裏では信長に内通した。

1581年、長宗我部元親が信長の臣従要求を拒絶したため、存保と三好康長は織田軍の援助を得て攻勢に出た。
しかし1582年、信長が本能寺の変で討たれると戦況は一変し、逆に長宗我部元親に阿波を奪われた。
1584年には細川真之も敗死し、居城も奪われた存保は羽柴秀吉のもとへと落ち延びた。

1585年、存保は秀吉の四国征伐に貢献し讃岐3万石の旧領を回復した。
だが1586年、九州征伐の折に豊臣家の軍監・仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戸次川の戦いで大敗し、元親の嫡男・長宗我部信親(のぶちか)とともに戦死した。

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