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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―丸目長恵  兵法天下一

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戦国列伝―丸目長恵  兵法天下一


※アイコンは師簒

丸目長恵(まるめ・ながよし)
肥後の人(1540~1629)

相良家に仕えた兵法家。
剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の弟子で四天王にも数えられ、タイ捨流の開祖。
剣術のみならず馬術から忍術、書や和歌にも通じた。
講談等では丸目蔵人(くらんど)の通称でも著名。

もとは山本姓だったが1555年、父とともに島津軍と戦った功で丸目姓を与えられた。
はじめは肥後の兵法家に学んだがそれに満足せず1558年、上洛し新陰流の上泉信綱に師事した。
将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)や正親町天皇の前で信綱が兵法を披露した際、その相手を務めた記録が残っている。

肥後に戻った長恵は相良家の新陰流指南役となり、多くの弟子を得た。
1566年、弟子を引き連れ再び上洛したが、折悪しく信綱は上野に帰国中で会えず、各地をめぐり「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めた。
しかし新陰流の名を恐れてか挑む者は現れず、肥後に帰った。信綱はその話を聞き、長恵に印可状(免許皆伝)を与えた。

1569年、相良家に戻った長恵は島津家久(しまづ・いえひさ)の策にかかり、大敗を喫した。
主君の相良義陽(さがら・よしひ)は激怒し逼塞の処罰を与えた。
武士として立身出世の道を半ば閉ざされた長恵は兵法修行に専念し、九州一円の兵法家に勝負を挑んだ。信綱は長恵の活躍を聞き西国での新陰流の普及を一任したという。
長恵は信綱が新たな奥義を編み出したと聞き三度上洛したが、すでに信綱は没していた。
落胆しながらも長恵はさらなる研鑽を重ね、数年後にタイ捨流を開いたとされる。

1587年、豊臣秀吉に降っていた相良家はすでに義陽も亡く、長恵の帰参を許し剣術指南役として迎えた。
タイ捨流は九州一円に広まり、立花宗茂ら大名も門下に名を連ねた。

晩年の長恵は出家し農業に従事しながら隠居生活を送り、1629年に90歳で没した。

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HN:
小金沢
性別:
非公開

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