忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―島津義弘  鬼島津

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―島津義弘  鬼島津



島津義弘(しまづ・よしひろ)
薩摩の人(1535~1619)
 
島津貴久(しまづ・たかひさ)の次男。当主である兄の島津義久(よしひさ)の片腕として活躍した。

意外に遅めの20歳で初陣を飾ると、自ら前線で槍を振るうためたびたび重傷を負ったが、大隅・日向・肥後の攻略に貢献し、島津家は一気に勢力を拡大した。
九州三強の一角・龍造寺家を破り、残すは大友家だけとなったが、織田信長のあとを受け天下統一を目指す豊臣秀吉の遠征軍が、大友の援軍として現れた。
豊臣軍の圧倒的な兵力を前に抗す術はなく、1587年に島津家は降伏した。

文禄・慶長の役では朝鮮に出兵したが、国元で梅北国兼(うめきた・くにかね)が一揆を起こしたため参陣が遅れ、また義弘の嫡子・島津久保(ひさやす)が陣中で没するなど不運がつづく。
しかし1598年、泗川の戦いでは7000の兵で明・朝鮮の連合軍を打ち破り4万もの首級をあげ、退却戦では朝鮮水軍の大将・李舜臣(り・しゅんしん)を討ち取り「鬼島津」と恐れられた。

1600年、関ヶ原の戦いに際しては親豊臣派の義弘と、反豊臣派の義久との間で対立が起き、義弘はわずか1000の兵力しか動員できなかった。
豊臣家に降伏したおりに、本国の薩摩だけではなく、大隅・日向の領有も認めるよう奔走してくれた石田三成に恩義を感じていた義弘は西軍に身を投じた。
しかしわずかな兵しか持たない義弘を西軍の首脳陣は冷遇し、前哨戦で島津軍を置き去りにしたり、献策を退けたりしたため、義弘は戦意を失った。
いざ戦が始まっても島津軍は動こうとせず、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りで勝敗が決すると、小勢の島津軍は逃げ場を失っていた。
義弘は切腹を覚悟したが、甥の島津豊久(とよひさ)の説得で翻意し、前方に突撃し敵中突破での退却を決意した。
死に物狂いの島津軍の勢いを恐れ、目の前にいた福島正則(ふくしま・まさのり)は道を空けた。追撃した井伊直政(いい・なおまさ)は深手を負い、のちにそれがもとで没した。
島津軍は、退却する際に部隊の一部を残し全滅するまで防戦させ、それを繰り返して本隊だけを逃げ延びさせる「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法をとり、島津豊久らの犠牲で退却に成功し「島津の退き口」と讃えられた。
日頃から家臣を大切にしていた義弘だからこそ成せる業であった。

薩摩に戻った義弘は防備を固める一方で、必死に和睦の道を探り、自身を追撃した井伊直政に仲介を求めた。
義弘の手勢しか出さなかった島津家にはまだ大軍が健在であり、島津軍の恐ろしさを身を持って知る井伊直政や福島正則らの口添えもあって、決戦を終えたばかりの徳川家康は不安定な情勢をかんがみ和睦を認めた。

1619年、義弘は生涯を閉じた。晩年は起居もままならなかったが、家臣が法螺貝を吹いたり、鬨の声を上げると、とたんに正気を取り戻したという。
家康は島津家を最後まで恐れ、遺言では自分の遺体を薩摩に向けて葬るよう命じた。その危惧は明治維新のおりに現実のものとなり、薩摩志士が江戸幕府を倒すのであった。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R