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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―斎藤龍興  信長に最後まで刃向かう



斎藤龍興(さいとう・たつおき)
美濃の人(1548~1573)

斎藤家の当主。
斎藤義龍(よしたつ)の嫡子で、母は浅井久政(あざい・ひさまさ)の姉妹とされる。
1561年、父が没し14歳で家督を継いだ。当時は織田信長の侵攻と明智光秀、森可成(もり・よしなり)ら家臣の離反が続いており、重臣の戦死や病没も重なり、さらに龍興も佞臣の斎藤飛騨守(ひだのかみ)を重用したため信頼を失い、背後の浅井長政には織田家と同盟されと、きわめて厳しい情勢にあった。

1563年、織田軍を竹中半兵衛の策略で撃破したものの、半兵衛は兼ねてから険悪だった飛騨守に侮辱された(小便を掛けられたとされる)のを恨み、飛騨守を殺すと斎藤家の居城・稲葉山城をわずか18名で乗っ取ってしまった。
龍興は半兵衛に反省を迫られたが応じず、やがて半兵衛は城を返還すると隠居したが、斎藤家の衰退は誰の目にも明らかとなり、美濃は織田家に次々と切り取られていった。

1567年、稲葉一鉄(いなば・いってつ)、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)ら「西美濃三人衆」の裏切りを機についに稲葉山城も陥落し、龍興は単身で伊勢長島へと落ち延びていった。
その後も龍興は長島一向一揆や三好三人衆、石山本願寺ら信長の敵対勢力と結託しては抵抗を続けた。
畿内に潜伏した際にはルイス・フロイスと交流し、イエズス会の教義を聞くとたちどころに理解し的確な質問を投げたため、フロイスは著書の「日本史」に「非常に有能で思慮深い」と記した。

1573年、縁戚をたどり朝倉家の客将として迎えられていたが、朝倉軍が織田軍に大敗すると、龍興も戦死した。享年26。
一説には氏家卜全の長子・氏家直昌(なおまさ)に討ち取られたという。

越中の興国寺には、龍興が流れ着き、斎藤九右ェ門(きゅうえもん)と改名し付近を発展させ、自身は住持となり87歳まで生きたという話が伝わるが、伝説の域を出ない。

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