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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―陶晴賢  毛利元就を有名にした男



陶晴賢(すえ・はるかた)
周防の人(1521~1555)

大内家の重臣。晴賢と名乗ったのは晩年の数年だけで、長く陶隆房(たかふさ)の名を用いたが、教科書にも載る主君暗殺の際の陶晴賢という名で著名である。

代々、大内家の重臣を務めた家に生まれ、自身も容姿と「西国無双の侍大将」と呼ばれるほど武勇に優れたため主君の大内義隆(おおうち・よしたか)に寵愛された。
元服して名乗った隆房の名も、陶家の当主は主君から一字拝領する慣例により、義隆から偏諱を受けたものである。

1539年、父が病死すると家督を継いだ。隆房は次男だったが、長男は戦死したとも主君と不和になり討たれたともされ判然としない。
1540年、尼子家が毛利家を攻めると、隆房は援軍の総大将として出陣し、見事に尼子軍を撃破した。
1542年には逆に尼子領に侵攻するも、惨敗し大きな被害を受けた。これにより義隆は勢力拡大に興味を失い、趣味の文化教養に没頭していき、文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用し、武断派の隆房は遠ざけられていった。

1545年、暗闘を制した隆房は、相良武任を失脚させ、国外追放させた。
だが3年後の1548年、義隆は武任を復帰させてしまう。武任は美貌で知られる娘を隆房の息子にめあわせようと懐柔を図ったが、隆房は暗殺を企みそれを断ったため、武任は義隆に泣きつき、結果として隆房は激しい詰問を受け家中での立場を失った。

1551年、反撃に乗り出した武任は「隆房が謀叛を企んでいる」と讒言し、危険を感じると国外逃亡した。
進退窮まった隆房は謀叛を現実のものとし、義隆、武任を相次いで暗殺した。
翌年、隆房は義隆の甥で大友宗麟(おおとも・そうりん)の弟にあたる大内晴英(はるひで)を新たな主君として迎え入れ、同時に百年単位で続いていた大友家との争いを終わらせた。
当然、晴英は傀儡の主君で実権は隆房が握ったものの、陶家の伝統に則り、晴英から一字拝領し陶晴賢と改名することで、晴英を主君として立てた。(なお晴英は2年後に大内義長(よしなが)と改名し、この際には晴賢の長男が「長」の字を譲られた)

大内家を掌握した晴賢は軍備増強に努めたが、内外の反発を招き、ついには安芸の毛利元就と、義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼(よしみ・まさより)が傘下から離脱した。
晴賢はすぐさま吉見家の討伐に赴いたが、主力が石見に集結した隙をつき、毛利軍が安芸の大内領を一気に攻め落としてしまった。
1555年、晴賢は自ら3万の大軍を率いて安芸厳島を攻めたものの、毛利軍の奇襲攻撃により潰走し、毛利家に与した村上水軍に退路を断たれ、やむなく自害した。享年35。

晴賢を失った陶家は、かつて晴賢に当主を殺された杉家によって滅ぼされ、大内家も2年後に毛利家に敗れ滅亡した。

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