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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―千利休  茶聖

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戦国列伝―千利休  茶聖



千利休(せんの・りきゅう)
和泉の人(1522~1591)

わび茶を完成させた茶人。茶聖とも呼ばれる。
利休の名は禁中茶会にあたり、町人の身分では参内できないため天皇から与えられた居士としての号である。晩年に用いただけで、茶人としての大半は千宗易(そうえき)と名乗っている。

堺の商家(倉庫業)に生まれる。若い頃から茶の湯に親しみ、師匠について学んだ。
織田信長が堺を直轄地とすると茶頭として仕えた。
信長が没すると次いで豊臣秀吉に仕え、1587年の北野茶会を主管するなど重用された。
秀吉の命を受け黄金の茶室を手がける一方で、草庵茶室、楽茶碗、竹の花入などを新たに創案し、独自の「わび茶」を磨き上げていった。
政にもたずさわり、大友宗麟(おおとも・そうりん)が大坂城を訪れたとき、秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)は「公儀のことは私に、内々のことは利休に」尋ねるよう告げたという。

だが1591年、突如として秀吉の逆鱗に触れ、蟄居を命じられた。
前田利家や、弟子である古田織部(ふるた・おりべ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)ら多くの大名が奔走したが許されず、ついに切腹を命じられた。
その際には、大名たちに絶大な影響力を誇る利休の奪還を恐れ、秀吉は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の軍勢に屋敷を警護させたとされる。

死後、古田織部や織田有楽斎(おだ・うらくさい)らによってわび茶の精神は受け継がれ、現在に至る。


~死罪の理由~
利休が切腹させられた原因としてよく知られているのは、「大徳寺三門の改修の際、自身の木像を二階に設置し、その下を秀吉に通らせたため」とする説で、死後にはその木像に踏みつけられる形で首を晒されたともいう。
しかし問題の木像は取り壊されることなく現存しており、説得力があるとは言いがたい。
はっきりとした理由はいまだわかっておらず、他にも安価な茶器を高額で売りさばき私腹をこらしたとか、政闘に巻き込まれたとか、娘を秀吉の側室に差し出すよう命じられたのを断ったなど、様々な説が挙げられている。


~わび茶~
現在伝えられる利休の人物像は、後世の創作が大半である。
高弟である山上宗二(やまがみ・そうじ)によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳からようやく独自の茶を築いたという。つまり晩年のわずか10年しか、利休はわび茶に携わっていないこととなる。

わび茶の概念を簡潔に述べると、まず名物を尊ぶ既存の価値観を否定したことが大きい。
利休は楽茶碗などを考案し、いずれも装飾性を廃した簡素なもので、値段も張らなかった。
茶室はそれまで4畳半が最小とされたが、利休は3畳、2畳にまで縮小し、入り口もごく狭くした。また障子を無くして窓を設け、その配置によって光と影の演出をするなど、設計の自由度を格段に向上させ、それぞれの工夫を凝らした千差万別の茶室を造れるようにし、これは現代の日本建築にも多大な影響を与えている。
利休の手によって、茶の湯は単なる憩いやたしなみから、芸術に昇華したといって過言ではあるまい。

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