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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―北条氏政  四代目は暗君?

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戦国列伝―北条氏政  四代目は暗君?



北条氏政(ほうじょう・うじまさ)
相模の人(1538~1590)


~経歴~
北条氏康(ほうじょう・うじやす)の次男。長男が早逝したため嫡子になる。後北条氏の第四代当主。
1559年、22歳の時に父から家督を譲られた。民政を重視する北条家では、検地や徳政を行うために代替わりをするのが常であった。以降は父とともに両頭体制で執務を行う。

氏康が没すると、上杉家との同盟を破棄し、武田家と手を結んだ。三方ヶ原の戦いにも兵を派遣し、徳川・織田連合軍への勝利に貢献している。
1578年、上杉謙信が没すると、謙信の甥の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と、北条氏政の弟で、謙信の養子となっていた上杉景虎(うえすぎ・かげとら)の間で家督争いが起こった。
氏政は叔父の北条氏照(ほうじょう・うじてる)らを援護に派遣したが、武田家は領土の割譲を条件に上杉景勝に味方し、景虎は敗れて自害した。武田家の裏切りに激怒した氏政は同盟を破棄し徳川家と結び、さらに中日本の全域を支配し、武田家の攻略に乗り出していた織田信長に臣従を申し出、武田家を挟撃した。

1582年、織田軍の猛攻により武田家は滅亡し、ほどなくして信長も本能寺の変で命を落とした。
氏政はその隙を逃さず、関東の支配を任されていた織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)を追放し、上野と南信濃の大半、甲斐の一部を徳川家との争奪戦の末に切り取り、さらに勢いをかって上総、下総、常陸にまで支配権を拡げた。その石高は250万石にも及び、後北条氏にとって最大、織田(豊臣)家に継ぐ一大勢力を築き上げた。

しかし北信濃で真田昌幸(さなだ・まさゆき 幸村の父)が反抗したのがケチの付き始め。豊臣秀吉からの再三の上洛命令を、氏政を人質にとる謀略と読んで断り続け、家臣の猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が秀吉の命令を無視して真田方の城を占拠するに及んで、秀吉の堪忍袋の緒は切れた。
秀吉は全国の大名に号令をかけ、22万もの大軍を催して小田原城を包囲した。いかな戦国一の名城と言えども、地を埋め尽くす大軍には抗す術もなく開城した。
第五代当主となっていた氏政の子・北条氏直(ほうじょう・うじなお)だけは許されたものの、氏政や主だった家臣はのきなみ切腹を命じられた。
病弱な氏直もほどなく急死し、後北条家は滅亡した。


 ~暗君・氏政~
関東の支配者・後北条家を滅亡させたため氏政の評価は極端に低く、北条家の伝記でも五代の当主の中で唯一「君」を付けられず呼び捨てにされ、「父の威徳のおかげでどうにか無事だっただけの愚か者」とこき下ろされている始末である。
他にも畑に実った麦を見て「あの麦を刈ってきて昼飯にしよう」と言ったとか、ご飯に味噌汁を二度掛けし、父の氏康に「汁かけご飯の加減もわからない者に、家臣や領地の掌握ができるものか」と呆れられたとか、暗愚さを物語る逸話が後世にいくつも作られている。
しかし上杉・武田・織田・徳川と時に応じて手を結び、いち早く織田に臣従したその眼力や、信長の死に乗じて一気に勢力を拡大した手並み、氏康のあとを継ぎ過不足なく領地を治めた内政手腕と、唯一、豊臣家に対する外交戦略は失策だったものの、北条家の当主として申し分ない力量を備えていたと思われ、再評価が待たれる。

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