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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―赤松義祐  野心家の名族

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戦国列伝―赤松義祐  野心家の名族


※アイコンは袁尚

赤松義祐(あかまつ よしすけ)
播磨の人(1537~1576)

播磨の大名。長じると父で播磨守護の赤松晴政(はるまさ)とともに政務に当たったが1558年、浦上政宗(うらがみ・まさむね)の後ろ盾を得て父を追放し守護の座を奪った。
晴政は娘婿の赤松政秀(まさひで)と協力して義祐に対抗し1564年、浦上政宗の息子の結婚式を襲撃し政宗父子を討ち取るなど内紛は長く続いた。
翌1565年、晴政が病没すると政秀は義祐と和解したが、その後も当時京の都を追われ放浪していた足利義昭(あしかが・よしあき)に接触するなど勢力拡大に動き、東播磨の別所安治(べっしょ・やすはる)もまた独立の気配を見せ、赤松家の衰退は誰の目にも明らかだった。

1568年、足利義昭が織田信長の庇護を得ると、政秀は娘を義昭の侍女として仕えさせようとした。
義祐は宗家を無視した行動に怒り、その娘を拉致させると浦上宗景(むねかげ 政宗の弟)とともに政秀を挟撃した。
政秀はたまらず足利義昭に救援を求め、義昭の要請で織田信長が援軍を出した。それに勢力拡大の好機と別所安治も加わり、さらに宇喜多直家(うきた・なおいえ)の謀叛で浦上軍も撤退し、義祐は窮地に立たされた。

だが幸運にも織田軍に畿内から追われながらもいまだ抵抗を続けていた三好家が後方で蜂起すると、信長は撤退を指示した。
義祐はすかさず信長に臣従を申し出ると、政秀と戦闘を続けていた浦上家を一転して攻撃した。
一方の政秀は黒田官兵衛父子に大敗し、浦上軍によって捕らえられた挙句に暗殺された。
宇喜多直家も孤立し浦上家に出戻ると義祐は兵を引き上げ、一連の動乱は終息した。

1570年、義祐は息子の赤松則房(のりふさ)に家督を譲り、その6年後に没した。
則房は織田・豊臣政権下でも名家の当主として一目置かれ豊臣秀吉の御伽衆を務めた他、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻め、朝鮮出兵など秀吉の主要な戦のことごとくに参戦し、1598年に没した。
しかし「参戦した」以外の記録がほとんどなく、播磨の他に与えられた阿波での事績も謎に包まれ、関ヶ原の戦いで西軍に属し切腹したとする異説もあり則房の、そして赤松家の最期は判然としない。

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