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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―荒木村重  予想外の謀叛



荒木村重(あらき・むらしげ)
摂津の人(1535~1586)

はじめは池田勝正(いけだ・かつまさ)に仕え、勝正の父ともされる池田長正(ながまさ)の娘をめとり一門衆に列した。
だが長正の死後、三好家の調略により長正の子・池田知正(ともまさ)とともに寝返り、勝正を追放した。
1571年、臣従する織田信長に見出され、池田家から引き抜かれた。
その際に信長は刀に饅頭を刺して顔先に突きつけ「食え」と命じたが、村重は臆せず一口に食べ、感心させたという逸話が伝わる。
織田家で数々の武功を立て、やがて知正も村重の配下に付けられ、1574年には摂津一国を任された。

しかし1578年、突如として摂津有岡城で反旗を翻した。明智光秀らの説得により一時は信長のもとへ釈明に赴こうとしたが、道中で家臣の中川清秀(なかがわ・きよひで)に「信長公は一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」と進言されたため、有岡城へ戻り立て籠もった。
羽柴秀吉は旧知の黒田官兵衛を向かわせ再度説得を試みたが、村重は官兵衛を幽閉し籠城戦を開始した。
信長は信頼していた村重の謀叛を信じられず説得に努めたものの、諦めると官兵衛も反乱したと思い込み、官兵衛の子で後の黒田長政(ながまさ)の処刑を命じたが、秀吉の軍師・竹中半兵衛は別の子供の遺体を探し、それを官兵衛の子だと偽ったため、事なきを得たという。

籠城は一年余り続いたが、重臣の中川清秀や高山右近(たかやま・うこん)らが織田家に寝返り、援軍も得られず孤立を深めると、村重は単身で有岡城を脱出し息子の守る尼崎城へと逃れた。
信長は代わって有岡城を守る池田知正と「尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子を助ける」という約定を交わし、知正は妻子を人質に残し村重の説得に向かったが、村重はそれを受け入れず、進退窮まった知正は出奔してしまった。
信長は見せしめとして村重、知正や家臣らの妻子百数十人を処刑した。
その後も信長は各地にちらばっていた荒木一族の者を見つけ次第殺し、匿った者も同じく殺した。
しかし村重は息子とともに尼崎城も離れ、毛利家に亡命した。

1582年、信長が本能寺の変で討たれると、堺に戻り茶人として第二の人生を歩み始めた。
千利休の十哲(十大弟子)に数えられるが、籠城戦のさなかに高山右近らキリシタンに裏切られたことを憎悪し讒言して回ったり、天下人となりつつあった豊臣秀吉を罵ったため処罰を恐れて出家した。
家族を捨て生き長らえたことを自嘲し荒木道糞(どうふん)と名乗ったが、後に秀吉に許され荒木道薫(どうくん)と改名させられた。

1586年、堺で52歳で没した。
妻子はほとんどが処刑されたが直前で乳母に逃がされたり、村重と行動をともにしていたため助かった子供が数人いる。


~謀叛の理由~
信長に謀叛した理由は諸説あり今もって定かではない。
親交のあった将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)や石山本願寺に調略された説。
中国方面軍の司令官に秀吉が任じられ、出世が望めないと悲嘆した説。
刀に刺した饅頭を食わされたことを実は恨んでいた説。
黒田官兵衛との謀略説。
など様々だが中でも面白いのが、中川清秀が石山本願寺へ兵糧を横流ししていたため処罰を恐れた説で、もしこれが事実ならば清秀は村重の謀叛の原因を作り、釈明しようとしたのを翻意させ、最後は信長に寝返って敗因を作るという絵に描いたようなマッチポンプぶりである。

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