忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―筒井定次  不遇の人

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―筒井定次  不遇の人


※アイコンは曹純

筒井定次(つつい・さだつぐ)
大和の人(1562~1615)

分家の次男に生まれたが、本家の当主で叔父(母の弟)の大和の大名・筒井順慶(じゅんけい)に男子が無かったため養嗣子となった。

1582年、織田信長が本能寺で討たれると、順慶は縁戚の明智光秀から味方に誘われたがそれを拒絶し、敗北の要因となった。
戦後、光秀を討った羽柴秀吉に降り、定次は人質として送られたものの2年後に順慶が病没したため家督を継いだ。
武勇に優れた定次は紀州、四国、九州、小田原征伐と続く豊臣家の主要な戦で活躍した。「絵本太閤記」には二尺七寸の大太刀を振りかざす勇姿が描かれているという。

しかしそのさなかの1585年、大坂城を居城に定めた秀吉は、畿内を一族や重臣で固めるため大和を弟の豊臣秀長(ひでなが)に任せ、筒井家を伊賀へ転封とした。
長らくこれは左遷、大減封(大和の総石高は44万石、伊賀は10万石)とされたが、処罰される理由が薄く、近年の研究では他に伊勢、山城にも所領を与えられており計20万石となり、もともとの筒井家は18万石であるから加増となり、また伊賀は交通の要衝であることから、伊賀への転封はむしろ秀吉の信頼の証とする説もある。
一方で転封の後に重臣の島左近、松倉重信(まつくら・しげのぶ)らが家臣の間での諍いから相次いで筒井家を去っており、定次の影響力は衰えを見せていたとも思われる。

1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し所領安堵となった。
しかし1608年、突如として改易を命じられ大名としての筒井家は滅亡した。
改易の理由は諸説あり、たびたび大坂城に通い豊臣秀頼(ひでより)らとの内通を疑われた、酒色に溺れ政務をないがしろにした等が挙げられるがいずれも決め手に欠け、要衝の伊賀から筒井家を追い出すための陰謀ともされる。(なお筒井家の代わりに伊賀には家康と昵懇の藤堂高虎が入っている)

定次の身柄は鳥居家に預けられたとも、皮肉にも藤堂高虎に預けられたともされ判然としないが1615年、大坂冬の陣で豊臣家と内通した罪により嫡子とともに切腹を命じられた。
冬の陣の際に大坂城から放たれた矢の中に筒井家の物が含まれていたため、とされるがこれもやはり難癖に等しいものに思えてならない。

筒井家は従弟の筒井定慶(さだよし)が継いだが、大坂夏の陣で大和郡山城を落とされる失態を演じ、自害した。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R