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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―糟屋武則  七本槍・地味担当



糟屋武則(かすや・たけのり)
播磨の人(1562~1601?)

姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などとも記され、名も真雄、数正、宗重、真安、宗孝と多くの別名が伝わるが年代がばらばらで、子の名乗りも混じっていると思われる。

1562年、志村家に生まれる。母は黒田官兵衛の主君として知られる小寺政職(こでら・まさもと)の妹で、武則の兄・糟屋朝正(かすや・ともまさ)を産んだ後に離縁され、志村家に再嫁し武則を産み、未亡人となると糟屋家へ再び嫁ぎ、当主となっていた糟屋朝正に武則の養育を頼んだというやや複雑な出生である。

1577年、羽柴秀吉の播磨攻めに対し糟屋家は、はじめ別所長治(べっしょ・ながはる)につき三木城に籠もり秀吉と戦うが、黒田官兵衛の説得によって寝返り、武則は秀吉の小姓頭となった。
1579年、兄の朝正が三木城攻防戦で討ち死にし武則が家督を継いだ。

1582年、本能寺の変が起こると秀吉の中国大返しに武則も従い、続く賤ヶ岳の戦いでは目覚ましい活躍を見せ、加藤清正や福島正則らとともに「賤ヶ岳の七本槍」に数えられた。
その後も小牧・長久手の戦いや九州・小田原征伐に従軍する一方で行政面にも携わり、各地で奉行や代官に任じられた。
1592年、文禄の役では同じ七本槍の片桐且元(かたぎり・かつもと)ともに目付を務め、織田秀信(おだ・ひでのぶ)を補佐した。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属し伏見城攻めにも加わった。本戦では宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)のもとで戦ったとも、大坂城に残ったともされ判然としない。
敗戦後は隠居し家名の存続を図ったが翌1601年に武則が、さらに翌年に嫡子も死去したためあえなく所領没収となった。

死去の経緯には多数の異説があり、没せずに徳川家康に旗本として仕えた説や、はるか前の文禄の役から帰国後に何者かによって毒殺されたという説、後に大名に復帰するも大坂夏の陣で戦死した説と、それなりに著名な人物でありながらその最期はよくわかっていない。

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