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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―浅野長政  秀吉の懐刀

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戦国列伝―浅野長政  秀吉の懐刀


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浅野長政(あさの・ながまさ)
尾張の人(1547~1611)

豊臣政権の五奉行筆頭。長政の名で著名だがそれは秀吉死後に改名した晩年の名乗りで、浅野長吉(ながよし)を名乗っていた時期の方がはるかに長い。

安井家に生まれたが叔父の浅野長勝(ながかつ)に男子が無かったため、婿養子になり浅野家を継いだ。
長勝の養女のねねが木下藤吉郎に嫁ぐと、親族の少ない後の豊臣秀吉は、義兄弟の長政を一門衆の筆頭格として重用した。

秀吉からの信頼は絶大で、1583年には近江大津2万石を与えられ大名に列し、翌年には京都奉行、そして五奉行筆頭として行政手腕を活かし、全国の太閤検地や金銀山の管理を任された。太閤にまで上った秀吉に対し意見を言える数少ない人物だったともいう。
また秀吉の妹・朝日姫(あさひ)が徳川家康に嫁ぐ際には同行したり、天下統一の最後の仕上げとなる奥州仕置も担当。
伊達政宗から絶縁状を叩きつけられたり、宇都宮家を讒言で取り潰しに追いやったりと個人の感情で動く一面もあったが、豊臣政権の重鎮として揺るぎなく、石高も甲斐21万石に上った。

秀吉没後の1599年、前田利長(まえだ・としなが)とともに謀叛の嫌疑を掛けられたため隠居し、嫡子の浅野幸長(よしなが)に家督を譲った。
だが1600年、関ヶ原の戦いでは時勢を見極め家康方につき、自らは徳川秀忠を補佐、幸長は東軍の先鋒として活躍し、幸長は戦後に紀伊37万石へ加増転封となった。

1606年、隠居料として常陸5万石を与えられた。
1611年、常陸で65歳で没した。次男の浅野長晟(ながあきら)はすでに備中に2万石を受けていたため、常陸は三男の浅野長重(ながしげ)が継いだ。

浅野家は1613年に幸長が急死すると(家康による暗殺説も根強い)男子が無かったため長晟が跡を継ぎ、後に改易された福島正則に代わり安芸42万石に転封され幕末まで続いた。
長重の継いだ領地は息子の代に播磨赤穂に移され、長重の曾孫が赤穂浪士で著名なかの浅野内匠頭である。

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