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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―毛利勝永  戦国裏最強の男


※アイコンは呂布

毛利勝永(もうり・かつなが)
尾張の人(1577~1615)

森吉成(もり・よしなり)の子。
父とともに豊臣秀吉に仕え、九州征伐の武功から父に豊前小倉6万石、勝永にも豊前国内に1万石が与えられ、あわせて秀吉から毛利姓を名乗るよう命じられ、父は毛利勝信(かつのぶ)に改名した。

1600年、関ヶ原の戦いでは父は豊前にいたため、勝永が兵を指揮して伏見城の戦いで大功を立てた。
本戦では毛利家(中国地方の本来の毛利家)の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の指揮下に置かれたが、徳川家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が毛利家の参戦を阻むため、前に布陣したまま動かず、ろくに戦闘に参加することなく終わった。
豊前小倉城も黒田如水に奪われ、戦後は改易され、土佐の大名となった旧知の山内一豊(やまのうち・かずとよ)に預けられた。

1614年、豊臣家と徳川家が戦闘状態になると、豊臣秀頼(ひでより)に招かれた。
しかし妻子を残していくのを気に病んでいると、妻は「心配ならば我々は海に身を投げましょう」と励ましたため参戦を決意し、勝永は若い頃に衆道の関係にあった当主の山内忠義(やまうち・ただよし)を助けたいと偽り、家族を人質に差し出して出立した。
長男が城を抜け出し、勝永ともども豊臣方についたと聞くと忠義は激怒し、勝永の妻子を軟禁したが、話を伝え聞いた家康は感心し、逆に彼女らの保護を命じたという。

勝永は豊臣家譜代の家臣ということもあり、真田幸村らとともに主力として迎えられた。
大坂冬の陣では幸村とともに野戦を支持したが容れられず、籠城戦となったため目立った活躍はなかったが、翌1615年の夏の陣で勝永の名は一躍、世に轟くこととなる。
緒戦、勝永らの救援が間に合わず後藤又兵衛(ごとう・またべえ)を見殺しにすると、幸村はそれを恥じて斬り死にしようとしたが、勝永は「死ぬならば秀頼公の御前で華々しく死のう」と言い翻意させた。

そして兵4千を率いて家康本隊の正面に陣取ると、先鋒の本多忠朝(ほんだ・ただとも)、小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ)を相次いで討ち取り、足並みの揃わない浅野・秋田・榊原・安藤・仙石・松下・酒井・諏訪・六郷らの部隊を次々と撃破し家康の本陣にまで突入した。
徳川秀忠の陣を守り、遠巻きに見ていた黒田長政(くろだ・ながまさ)は驚き、加藤嘉明(かとう・よしあき)にあれは誰かと尋ねた。勝永だと聞くと長政は「この前まで子供のように思っていたのに歴戦の将のようだ」と嘆息したという。

しかし家康の叱咤を受け死にものぐるいの突撃を仕掛ける松平忠直(まつだいら・ただなお)によって真田幸村が討ち取られると、戦線は崩壊し退却を余儀なくされた。
その際にも勝永は追いすがる藤堂高虎、細川忠興(ほそかわ・ただおき)、井伊直孝(いい・なおたか)ら名だたる猛将を退け、無事に城内へ戻った。

翌日、豊臣秀頼の介錯を務めた後に切腹して果てた。享年39。

勝永の活躍は衆目を驚かせ、山内家は後に旧臣に命じて勝永の伝記をまとめさせた。
大坂の陣を見聞した宣教師は「勝永と幸村の猛攻により家康は色を失い切腹しかけた」と本国に報告したという。
しかし後年、「真田十勇士」などで幸村が講談の英雄として祭り上げられていくなか、勝永の存在は忘れられ、その武功も多くが幸村のものとして取り入れられていった。
早くも江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわ・とこう)は随筆で「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。

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