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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―小早川秀秋  戦国最大の裏切り



小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)
近江の人(1582~1602)

豊臣秀吉の正室ねねの兄・木下家定(きのした・いえさだ)の五男。
4歳の時、実子のない秀吉に養子として迎えられた。はじめは秀俊(ひでとし)と名乗る。
秀吉・ねね夫妻には我が子のようにかわいがられ、諸大名からも豊臣秀次(ひでつぐ)に次ぐ後継者候補と見られていた。

だが1593年、秀吉に待望の実子・豊臣秀頼(ひでより)が生まれると状況は一変する。
黒田官兵衛の提案により、実子のない毛利輝元(もうり・てるもと)の養嗣子に出されそうになるが、毛利家の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は、秀吉によって毛利家が形骸化することを恐れ、急ぎ甥の毛利秀元(ひでもと)を後継者として立てると、代わりにやはり実子のない自分が養子にもらい受けたいと申し出た。
秀吉は隆景を「日本の東は徳川家康、西は隆景に任せれば安泰だ」と評するほど信頼しており、それを認めた。

1595年、豊臣秀次が謀叛の嫌疑を掛けられた末に自害に追い込まれると、秀秋も連座して所領を没収された。
すると隆景はすぐさま隠居して自身の所領を秀秋に相続させ、さらに外様の家臣を仕えさせるなど便宜を図ってやった。
1597年からは慶長の役で一軍を率い活躍した。その際に秀吉の帰国命令を再三にわたり無視したとか、敵兵を虐殺し秀吉に叱責されたともいい、帰国すると越前北ノ庄15万石へと石高をほぼ半分に減封された。慶長の役での軽率な行動への処罰だとされるが、それを裏付ける確かな史料はなく、理由は不明である。
1598年、秀吉が没すると旧領の筑前30万石に復帰した。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍で最大兵力の1万5千を率い松尾山に布陣した。
石田三成は当初、大垣城での籠城戦を企図していたが、大軍を擁する秀秋が勝手に前線に出てしまったため、やむなく関ヶ原での野戦を強いられたとする説もあり、そこから発展して秀秋の進出は籠城戦より野戦を望んだ徳川家康の意向を反映したものであるという説がある。

秀秋は戦前から家康に調略を受けており、戦端が切られても兵を動かさずに傍観した。じれた家康はたびたび内応を促す使者を送り、秀秋の陣を銃撃さえした。
戦いも後半、ようやく重い腰を上げた秀秋は山を下り大谷吉継(おおたに・よしつぐ)軍に襲いかかった。その際には寝返りに不服だった松野重元(まつの・しげもと)ら一部の兵が戦線離脱したという。
1千にも満たない大谷軍はよく健闘したものの、付近にいた脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四大名も連鎖反応して一斉に寝返ったため、全滅した。
秀秋の寝返りが決定打となり、劣勢だった東軍は逆転勝利を収めた。

戦後、西軍に与した宇喜多家の所領を受け継ぎ55万石に加増されたが、一方で長年家老を務めた稲葉正成(いなば・まさなり)が出奔するなど家臣団の間で対立があったと思われる。
そして関ヶ原の勝利の立役者となってからわずか2年後の1602年、秀秋は21歳の若さで急死した。
大谷吉継が死の間際に「秀秋は人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言い遺したことから祟り殺されたと見る向きもあるが、秀秋は十代の頃から酒色に溺れ、また養母のねねに多額の借金をするなど奢侈な生活を送っており、記録からも重度のアルコール依存症が死因と思われる。

死後、後継者がいなかったため改易となり、明治時代に幕府の許しを得て再興するまで小早川家は断絶した。
なお秀秋の死後に家臣らは関ヶ原の裏切り者として仕官に苦労したという逸話が知られるが、俗説に過ぎず平岡頼勝(ひらおか・よりかつ)などは大名にまで昇進している。

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