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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―奥田直政  天下の仕置ができる一人

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戦国列伝―奥田直政  天下の仕置ができる一人


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奥田直政(おくだ・なおまさ)
尾張の人(1547~1608)

幼少期は寺に預けられ、従弟の堀秀政(ほり・ひでまさ)とともに育った。
6歳年下の秀政とは「先に出世した方の家臣になり支え合おう」と誓ったとされるが、同様の逸話が加藤清正らにもあり真偽は怪しいものの、直政は織田信長の小姓として頭角を現した秀政の腹心として実際に支え続けた。
堀姓を与えられたため堀直政とも呼ばれ、息子らも奥田ではなく堀姓を踏襲している。

だが1590年、秀政は38歳の若さで急死してしまう。
豊臣秀吉は秀政の嫡子・堀秀治(ひではる)が15歳と若いため相続を渋り、あわよくば落ち度を見つけ所領を没収しようと考えた。
直政はそれを察すると自身の次男の堀直寄(なおより)を秀吉のもとへ送った。弱冠14歳の直寄の堂々たる抗議に感心した秀吉は、直寄を自身の小姓に取り立てるとともに秀治の家督相続を認めた。

秀吉は秀政の急死にも屈せずよく堀家を支えた直政を高く評価し、直江兼続、小早川隆景とともに「天下の仕置ができる三人」に挙げた。
一方で「家臣の身ながら天下を狙える三人」としては直政を外し鍋島直茂(なべしま・なおしげ)を代わりに入れているが、仮定の話としても直政に天下を狙う野心は無いと考えてのことだろうか。

1598年、越後の上杉景勝が会津へ転封となり、代わって堀家が越後に移ることになると、この時も直寄が秀吉のもとへ向かい、直政が老齢であること、長年にわたり上杉家に支配された土地で反乱の懸念があることを訴えた。
秀吉ももっともだと考え、直寄や堀家の重臣を付近の大名に任じ、地盤を固めさせた。
ところが上杉家の家老・直江兼続は親友の石田三成と共謀し、年貢米を全て持ち去っており(半分は残しておく慣習だった)堀家はいきなり財政難に見舞われたという。

堀家は上杉家の監視役も担ったが、秀吉が没すると早々に上杉家は軍備を整えだした。
秀吉の死後に台頭した徳川家康は上杉家の討伐を命じ、全国の大名に号令を掛けると、石田三成が蜂起し、関ヶ原の戦いが幕を開いた。
堀家でも東西両軍のどちらにつくか意見が分かれ、直寄は「豊臣家の恩に報い家康と戦うべきだ」と主張したが、直政が「堀家の発展はそもそも織田家によるものだ。秀政も織田家の衰退を嘆いていたし、三成の蜂起は織田家や豊臣家のためになることでもない。戦えば家康が必ず勝つ」と言うと、一同も納得し堀家は東軍につくと決まった。
間もなく三成から「隣国の前田家、丹羽家はすでに西軍についた」とする書状が来たが、直政は即座に嘘だと見抜き、三成に味方する返事を送る一方で前田家に事の真偽を確かめさせた。
直江兼続は年貢米の持ち去りを逆手に取って領民の反感を煽り、一揆を起こさせたが、直政は巧みな用兵で速やかにこれを鎮圧した。
その手腕を見込んでか、翌年に徳川領の佐渡で一揆が起こると、家康は直々に直政に鎮圧を命じている。

直政は堀家の安定のため、徳川家の娘を孫(秀治の息子)の堀忠俊(ただとし)の妻に迎えたいと家康に働きかけた。家康は本多忠勝の孫娘を徳川秀忠の養子にした上で嫁がせたが、堀家は後に改易になったこともあり、親藩の扱いは受けなかった。
1606年に秀治が31歳の若さで没し、直政も1608年に62歳で死去した。
秀治の跡は忠俊が、直政の跡は直寄の兄・堀直清(なおきよ)が継いだが、それに不満を抱いた直寄は家督争いを起こし、兄が僧侶を虐殺した事件を告発した。
かねてから外様大名の勢力削減に動いていた幕府は、渡りに船とばかりに堀家を改易し(忠俊は15歳と若く実質的に直清が統治していたため、直清の罪はそのまま堀家が被った)醜い争いを演じた直寄も減封された。

堀秀政から続く堀宗家はこれにより滅亡したが、堀直寄はその後、功を立て越後村上10万石にまで復帰し、皮肉にも秀政を支え続けた直政の家系が堀家の嫡流となるのだった。

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