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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―増田長盛  五奉行・立ち回りに失敗


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増田長盛(ました・ながもり)
尾張または近江の人(1545~1615)

豊臣政権の五奉行の一人。
1573年、羽柴秀吉に仕えるまでの経歴は不明で、一説に一向宗徒として織田信長と戦ったという。
秀吉のもとで内政・外交に手腕を発揮し、また小牧・長久手の戦いや紀州征伐では大将首を挙げるなど武勇にも優れた。
次第に頭角を現し諸大名との交渉や連絡、太閤検地の実施を担い、文禄の役では兵站や占領地の統治はもちろん実戦にも投入された。

1595年、豊臣秀長(ひでなが)に続き豊臣秀保(ひでやす)が没すると大和郡山20万石を与えられ、秀長・秀保の旧臣を多く召し抱えた。
秀吉の晩年には五奉行に列し、慶長の役では福島正則、石田三成とともに大将として大規模な援軍を率いることが決まっていたが、秀吉の死により沙汰止みとなった。

1600年、関ヶ原の戦いでは同じく五奉行を務めた三成に従い、やはり五奉行の長束正家(なつか・まさいえ)とともに作戦立案に貢献。
伏見城攻めには長盛自ら加わり、近江大津城の戦いでは長盛は参戦しなかったものの、増田軍が先陣を切って戦った。
だが一方で裏では三成の挙兵を徳川家康に報せ、管理していた豊臣家の直轄領から三成へ資金援助を行わずと、東西両軍に通じていた。直轄領の石高は100万石(約3万の兵力に相当)にも及び、もし長盛が全面的に三成を援助していれば、関ヶ原の趨勢は変わっていたという指摘もある。
本戦には参加せず、西軍総大将の毛利輝元(もうり・てるもと)とともに大坂城にいたが、西軍が敗れると出家して家康のもとへ謝罪に赴き、助命されたが改易のうえ高野山へ預けられた。

1614年、家康から大坂冬の陣に先立ち豊臣家との和睦の仲介を依頼されたがこれを拒絶した。
徳川義直(よしなお)に仕えていた嫡子の増田盛次(もりつぐ)は徳川方として参戦したが、豊臣家への忠誠心厚く、徳川軍が敗れると喜び、豊臣軍が敗れると嘆き、家康を「さすが増田の子よ」と感心させた。

1615年、大坂夏の陣で盛次は父と相談の上で徳川義直の了承を得て、豊臣軍に加わった。
藤堂高虎軍と戦い華々しく討ち死にを遂げ、戦後に長盛は息子の責任を取り切腹した。享年71。

最期こそ潔かったが、関ヶ原での保身目的の姑息な立ち回りから、豊臣家を滅亡させた元凶と見られることも多い。

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