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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―堀秀政  名人久太郎


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堀秀政(ほり・ひでまさ)
美濃の人(1553~1590)

織田信長、豊臣秀吉に仕え、戦上手ぶりから「名人久太郎」とうたわれた。(久太郎は秀政の名)

美男子で幼い頃から才気に優れ、13歳で信長の小姓に取り立てられた。
16歳にして将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)の屋敷の普請奉行を命じられるなど、多くの奉行職を務め早くから頭角を現す。
政治だけではなく軍事にもその才は発揮され、1577年の紀伊雑賀討伐では一隊を率いた。

1581年、近江坂田に2万5千石を与えられ大名に列し、翌年の本能寺の変の際には秀吉のもとにおり、山崎の戦いで先陣を務めた。
明智光秀の居城・坂本城に迫ると光秀の娘婿・明智秀満(ひでみつ)は、秀政の家老の奥田直政(おくだ・なおまさ)に伝来の家宝を譲った後に自害したという。
光秀を討った秀吉は織田家での地位を確立し、わずか3歳の信長の孫・織田秀信(ひでのぶ)を当主に据え、秀政を傅役に任じた。
秀吉からの信頼は厚く、一族外の者で初めて羽柴姓を許され、賤ヶ岳の戦いでも軍功多く秀吉に讃えられた。

1584年、小牧・長久手の戦いでは池田恒興(いけだ・つねおき)、森長可(もり・ながよし)ら名だたる将が戦死する中、秀政は部隊を3つに分けると徳川軍を撃退してのけた。
紀州征伐、四国征伐でも大功を立て、石高は越前北ノ庄18万石に上った。
しかし1590年、小田原征伐で左翼を任され快進撃を続けるさなか、疫病を患い38歳の若さで急死した。

後に90万石を領する蒲生氏郷(がもう・うじさと)と同等のペースで加増を重ねており、無事ならば百万石の大身になってもおかしくなく、もし人心掌握術に優れ「名人」とまでうたわれた戦上手の秀政が存命で西軍に属していたら、関ヶ原の戦いの趨勢さえ左右したであろう。

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