忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―堀尾吉晴  仏の茂助


※アイコンは梁習

堀尾吉晴(ほりお・よしはる)
尾張の人(1544~1611)

豊臣秀吉の重臣。温厚で通称から「仏の茂助(もすけ)」と呼ばれた。
堀尾家は尾張の国人衆で、尾張上四郡の守護代・織田信安(おだ・のぶやす)に仕えていた。
しかし1559年、織田信長によって滅亡に追い込まれたため鞍替えし、木下秀吉の下に付けられた。

以降は秀吉に従い各地を転戦し、1567年の稲葉山城の戦いでは城に通ずる裏道を案内したという。
順調に出世を重ね1583年、若狭高浜に1万7千石を与えられ大名に列し、かつて織田信安に仕えた山内家の山内一豊(やまのうち・かずとよ)らとともに豊臣秀次(ひでつぐ)の家老となった。
その後も九州征伐、小田原征伐にも参戦し、1590年には関東に移封となった徳川家康の旧領である遠江浜松12万石を与えられた。
1595年、秀次は謀叛を企んだとして処刑され、多くの家臣も連座したが、すでに独立を果たしていたのか吉晴は罪に問われなかった。
またこの頃、中村一氏(なかむら・かずうじ)、生駒親正(いこま・ちかまさ)とともに三中老に任じられたとされる。

1598年、秀吉が没すると家康によしみを通じ、前田利家、石田三成ら反家康派との間を取り持った。
翌年、老齢を理由に隠居し、長男が早逝していたため次男の堀尾忠氏(ただうじ)に家督を譲った。
隠居料として家康から越前府中5万石を与えられたが、これは家康が知行を与えた最初の例である。

1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき、それに先立ち会津征伐に赴く家康を浜松城で歓待した。
吉晴は自らの参戦を訴えたが、家康は忠氏だけで許し帰国を命じた。
帰国の途上、三河で水野忠重(みずの・ただしげ)、加賀井重望(かがのい・しげもち)と宴会をしていると、突如として重望が忠重を殺害した。
吉晴も襲われ17ヶ所もの槍傷を負ったが、重望を返り討ちにした。
駆けつけた忠重の家臣らは吉晴が下手人だと勘違いするほど凄惨な現場で、吉晴の菩提寺に残る吉晴木像には左頬に深い傷跡が彫られており、この際に負ったものと思われる。
事件の背景は不明だが、重望が西軍に通じており、東軍の重鎮である吉晴、忠重を狙ったものと考えられている。

忠氏は関ヶ原の本戦で活躍し出雲富田24万石に加増された。また吉晴も北国の情勢を逐一家康に報せたとされる。
1604年、忠氏が急逝し孫の堀尾忠晴(ただはる)が6歳で跡を継いだため、吉晴が復帰し後見役を務めた。
1611年、松江城を築き移り住み、間もなく68歳で没した。

堀尾家は1633年に忠晴が没すると無嗣改易となったが、血縁は他家の家臣となり残っている。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R