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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―可児才蔵  笹の才蔵



可児才蔵(かに・さいぞう)
美濃の人(1554~1613)

本名は吉長(よしなが)だが才蔵の通称で著名。
美濃可児郡に生まれ、幼少期は寺で過ごした。宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)に槍を学んだとされる。
ある時、勝負を挑まれると才蔵は試合場に鉄砲を構えた部下10人とともに完全武装で現れた。相手が「実戦ではなく試合だ」と抗議すると「俺の試合は実戦が全てだ」と笑い、相手や局面がなんであろうと常に全力で挑む心構えを見せたという。

前半生は不確かながら、はじめは斎藤龍興(さいとう・たつおき)に仕え、斎藤家の滅亡後は柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝(おだ・のぶたか)らの間を転々としたと伝わる。
森長可(もり・ながよし)に仕えていた頃、戦場で多くの首級を挙げたため手に余り、討ち取った首を置き去りにしたが、その口に旗印にも使っていたトレードマークの笹をくわえさせ(首の切り口に差し込んだともいう)、自分の手柄だと示したため「笹の才蔵」の異名を取るようになった。

やがて羽柴秀吉の甥・三好秀次(みよし・ひでつぐ)に仕えた。
しかし小牧・長久手の戦いで秀次が徳川家康に大敗した折、徒歩で逃げている所に才蔵が馬で通りかかったため「馬をよこせ」と命じたが、才蔵は「雨の日の傘に候」と答えるや走り去ってしまい、秀次を激怒させ戦後に浪人になったという。(傘で雨を防ぐように、逃げるために馬が必要なのだという意味か)
その他、相手が秀次だと気付かず、反省して自ら三好家を去ったとも、「この敵には槍も通じない。糞食らえだ」と言ってやはり秀次を怒らせたとも伝わる。

後に佐々成政(さっさ・なりまさ)を経てようやく福島正則の家臣に落ち着いた。
1590年の北条攻め、1600年の関ヶ原の戦いでは福島軍の先鋒として活躍し、関ヶ原本戦では17の首を挙げ(ただし17は笹の葉を含ませた首の数で実際はもっと多数か)徳川家康に絶賛された。

1613年、若い頃から信仰していた愛宕権現にちなみ「愛宕権現の縁日に死ぬ」と公言していた通り、縁日に没した。
身を清め甲冑を着けて床机に腰掛けたまま亡くなったという。

生涯、一兵士にも等しい身分ながら徳川家康に賞賛されたことや、その並外れた武勇を敬われており、彼の墓前を通りかかった者は、馬を降りて礼を示したと伝わる。

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