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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―高坂昌信  逃げ弾正

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戦国列伝―高坂昌信  逃げ弾正



高坂昌信(こうさか・まさのぶ)
甲斐の人(1527~1578)

武田四天王に数えられる重臣。
高坂昌信の名で著名だが近年の研究により本名は春日虎綱(かすが・とらつな)が正しく、高坂は一時的に名籍を継いだ香坂家から、昌信は出家名(とすれば読みは「しょうしん」か)と考えられる。

16歳で父を失い、姉夫婦に遺産を奪われ路頭に迷いかけたところを武田信玄に拾われた。
大変な美男子で信玄とは衆道の関係にあり、他の男を寵愛するのに嫉妬した昌信へ信玄が弁解する手紙が残っている。
長じると知勇兼備の名将に育ち、最前線の海津城を任され、五度に渡る川中島の戦いではまず昌信の海津城が攻撃にさらされた。
三方ヶ原の戦いなど武田家の主要な戦には必ず参陣し、特に撤退戦が得意で官名から「逃げ弾正」の異名で呼ばれた。
また記述の信憑性は怪しいが武田家にまつわる様々な逸話を収めた軍学書「甲陽軍鑑」の原本を手掛けたのも昌信とされる。

1573年、信玄が没すると殉死を願ったが、重臣や後継の武田勝頼(かつより)に慰留された。
しかし1575年、長篠の戦いの頃には昌信ら旧臣は疎まれており、彼らの慎重論を退けて決戦を挑んだ勝頼は大敗を喫し、他の四天王らをはじめ多くの重臣が討ち死にした。昌信は参戦していなかったが嫡子が戦死している。

その後は上杉家との同盟締結のため死の間際まで働き、1578年に没した。
家督は次男の高坂信達(のぶたつ)が継ぎ、1582年の武田家滅亡も生き延び上杉家に仕えたものの、北条家や真田家との内通を疑われ誅殺された。
またそれに先立ち森長可(もり・ながよし)の撤退を妨害した報復として、森家を継いだ森忠政(ただまさ)によって1600年、一族皆殺しの憂き目にあい嫡流は途絶えたが、江戸期に甲府の豪商が昌信の子孫を自称している。

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