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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―真田信之  信濃の獅子


※アイコンは朱桓

真田信之(さなだ・のぶゆき)
信濃の人(1566~1658)

真田昌幸(まさゆき)の長男。真田幸村は弟。はじめは真田信幸(のぶゆき)の字を用いた。
策謀家で知られる父、日本一の兵とうたわれた弟にも劣らぬ勇猛さで「信濃の獅子」と呼ばれ、残された羽織などから当時としては並外れた長身の185センチと推定される。

真田家は武田家に臣従していたため幼少期は人質として育った。
1582年、武田家が織田信長に滅ぼされると、同じく人質だった母を伴い父の待つ上田城へと逃れた。

昌幸は織田家に鞍替えしたものの3ヶ月後に信長が本能寺の変で討たれ、東部戦線が崩壊。信濃は北条・上杉・徳川の三者による争奪戦に巻き込まれた。
はじめは北条家に従い川中島で上杉軍と戦ったが、徳川家に仕える昌幸の弟・真田信尹(のぶただ)の説得により寝返り、沼田城を奪った。
北条軍の反撃にあい手子丸城を奪われると、800の兵を率いた17歳の信幸は城兵を挑発しておびき出し、伏兵でさんざんに叩いた。守る富永主膳(とみなが・しゅぜん)は5千の兵で籠城したが、信幸は一部隊を城内へ潜入させると反乱と偽り同士討ちを誘い、混乱の隙に自ら決死隊を率いて突入し、見事に陥落させた。
後に徳川家に仕えた富永主膳は、若き信幸の巧みな采配ぶりを酒席でたびたび披露したという。

その後、上杉家に鞍替えしたが台頭する豊臣秀吉に上杉家も降伏したため道を同じくし、1589年に家康とも和睦すると、真田家は徳川家の与力大名に付けられた。
父のもとでたびたび小勢ながら北条軍を撃退してきた信幸を家康は大いに気に入り、重臣の本多忠勝の娘・稲姫をめとらせ側近くに仕えさせた。
稲姫との初対面では、平伏する諸将のまげをつかみ無理やり頭を上げさせる稲に立腹し、手を扇子ではたき叱責したところ一目惚れされた、という逸話が広く知られるが創作である。

1600年、関ヶ原の戦いが起こると、昌幸の妻は西軍の指揮官・石田三成の妻の姉妹、幸村の妻は三成の腹心・大谷吉継の娘、信之の妻は東軍総大将・家康の腹心の娘と、真田家は複雑な立場に置かれた。
信幸は父を説得したが、昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に付くことが決まった。
昌幸は引き上げる途中、信幸の沼田城に立ち寄り孫の顔が見たいと稲に申し入れたが、乗っ取りを危惧した稲は城門を閉ざし、家臣の家族を歓待と称して人質に取ったため「さすが本多忠勝の娘」と笑い昌幸は手出しせず帰ったという逸話が伝わる。
昌幸父子は上田城に籠り、大軍を率いて関ヶ原へと向かう徳川秀忠を足止めし多大な被害を与え、悪天候も重なり本戦に間に合わせなかった。

戦後、昌幸は改易となり、秀忠軍に同行していた信幸に父の旧領とあわせ9万石が与えられた。
信幸は父と弟の助命嘆願をし、本多忠勝もそれに同調したため死罪は免れ流罪と蟄居に留められた。
父との訣別を示すため真田信之に改名し、破却された上田城に代わり自身の治める沼田城を居城に定めた。

1614年からの大坂の陣には病気で出陣できず、二人の息子が名代として参戦した。
昌幸はすでに亡く、幸村は大坂方として奮戦し、家康を窮地に追いやる意地を見せ討ち死にした。
また無事に帰った息子らに母の稲は「実家の本多家で戦死者(稲の弟である)が出たのだから、あなた達のどちらかが戦死していれば忠義も示せて釣り合いが取れたのに」と言い放ったという。
戦後、信濃松代13万石に転封となった。加増ながら任地を変えられた(徳川秀忠による関ヶ原の意趣返しとされる)ことに信之は怒り、引き継ぐべき重要書類を全て焼き捨て、灯籠や植木さえ抜かせて持ち去ったと伝わる。

その後も第一線で働き続け1656年、実に91歳でようやく隠居し、長男もその子もすでに没していたため次男に家督を譲った。
ところが2年後に次男も没してしまい2歳の孫が当主になったため、信之は復帰し自ら政務をとった。
同年10月に93歳で逝去。文字通りに最後の最後まで生涯現役を貫いた。

真田家は松代藩で幕末まで続いた。
明治時代、信之が家康から拝領したと伝わる短刀が収められた箱が初めて開かれると、中には短刀ではなく、石田三成と内通する機密書類が入っていた。
温厚な人柄と伝わる信之の、父と弟を奪い故郷からも遠ざけた徳川家に対する静かな怒りがしのばれる。

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