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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―本庄繁長  上杉家に鬼神あり


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本庄繁長(ほんじょう・しげなが)
越後の人(1540~1614)

上杉謙信、景勝に仕え「上杉家に鬼神あり」とうたわれた猛将。
繁長が生まれる直前、本庄家は叔父にあたる小川長資(おがわ・ながすけ)の謀略によって城を奪われ、父は繁長の生まれる5日前に失意のうちに病死した。
当主に立てられた繁長は1551年、父の13回忌に出席した長資を捕縛し自害へ追い込み、実権を奪い返した。

当初は長資を支援していた上杉謙信と対立したものの、1558年に降伏すると、川中島の戦いや関東侵攻で武功を立てた。
だが1568年、謙信の命で長尾藤景(ながお・ふじかげ)を酒宴と偽りおびき寄せ暗殺したものの、繁長は手傷を負い、恩賞も無かったことに不満を抱き、大宝寺義増(だいほうじ・よします)とともに謀叛を起こした。
勇猛な繁長に手を焼いた謙信は、まず義増を攻めて降伏させ、孤立した繁長を攻撃した。さしもの繁長もたまらず翌年に蘆名家の仲介を受け、嫡子の本庄顕長(あきなが)を人質に出して上杉家に帰参した。

1578年、謙信が没し上杉景勝と上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い(御館の乱)が持ち上がると、繁長は景勝方につく一方で、顕長を景虎方に送り込み、景勝の勝利に終わると顕長を廃嫡した。
これは顕長を助命するための方策でもあり、戦後も顕長は上杉家に変わらず仕えている。

1583年、最上義光(もがみ・よしあき)が庄内に侵攻すると、繁長は大宝寺義増の子・大宝寺義興(よしおき)とともにそれを迎え撃った。
義興は本庄家との関係を密にするため繁長の次男、後の大宝寺義勝(よしかつ)を養子として迎え入れた。
しかしこれが庄内の他の国人衆の反発を招き、1587年に義興は城を落とされ自害した。
翌1588年、最上軍が伊達政宗と対峙し動けない隙をつき、繁長・義勝は一気に大宝寺家の旧領を奪い返し、1589年には豊臣秀吉に拝謁し大宝寺家を上杉家の与力大名として認めさせた。

1590年、伊達政宗が扇動したと思われる大規模な一揆が奥州で巻き起こった。
繁長・義勝父子も扇動の嫌疑を掛けられ改易され、大和に配流された。
その後、文禄の役に参戦して武功を立てたため帰参を許された。

1600年、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍についた上杉家は伊達政宗の猛攻にさらされた。
繁長・義勝は福島城を守り、大軍に包囲されたものの防衛に成功した。この戦いは後世で軍記物に描かれ、上杉家はそれを通説として広く喧伝したため、繁長の名は庶民の間にも広まっていったという。

家中では徳川家康に降伏すべきか否か激論が交わされ、直江兼続は抗戦を、繁長は降伏を主張した。
上杉景勝は降伏を容れ、繁長を使者として上洛させた。上杉家は改易こそ免れたが会津120万石から米沢30万石への大減封を命じられた。
繁長は引き続き福島城代として上杉家に貢献し1614年、74歳で没した。
景勝は繁長の武勇を讃え「武人八幡」の称号を与え、大宝寺義勝を本庄家に戻し本庄充長(みつなが)と改名させ家督を継がせた。
その後も本庄家はさらなる減封で福島を失った後も上杉家に仕え続けた。

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