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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―山本勘助  幻の軍師

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戦国列伝―山本勘助  幻の軍師

  

山本勘助(やまもと・かんすけ)
三河の人(1493~1561)

武田信玄の家臣。伝説的軍師として長らく実在が疑問視されてきたが、近年の研究により山本菅助(読みは同じ)というモデルになったと思われる人物の存在が確認された。
本名は山本晴幸(はるゆき)で武田晴信(たけだ・はるのぶ)と名乗った頃の武田信玄に与えられたとされるが、「晴」の字は信玄が時の将軍から与えられたものであり、それを家臣に又貸しのように与えることは考えられない。
また「ヤマカン」の語源とされる。

以下の記述は内容の信憑性に乏しい「甲陽軍鑑」を基とする。というか勘助の業績は「甲陽軍鑑」以外の史料に見当たらない。
26歳または20歳のとき、武者修業の旅に出た。剣豪・上泉秀綱(こういずみ・ひでつな)の弟子と試合をしたというが、上泉秀綱が旅に出たのは勘助の死後であり、いきなり史実と食い違う。
10年の間、諸国を渡り歩き、兵法を学んだ。勘助の子孫を自称する者が、中国の大内家に仕えていたとするが、矛盾が多くやはり信憑性は低い。

1536年、駿河の今川家に仕えようとしたが、隻眼で足が不自由な、容貌も醜い勘助はあなどられ、仕官はかなわないまま9年の時を悶々と過ごした。
しかし次第に勘助の名声は高まり、1543年(9年の時を過ごしたはずがなぜか7年後である)、武田晴信に仕官がかなった。
同年、武田軍が信濃に侵攻すると、勘助は兵法を駆使し9つの城を落とす大功を立てた。
1544年には諏訪家を降したというが、史実では1542年のことでありここでも矛盾する。

1546年、武田軍は北信濃の村上義清(むらかみ・よしきよ)を攻めた。
だが反撃にあい、武田軍は総崩れとなりあわや全滅の危機に陥った。
そこで勘助は50騎を率いて陽動に出ると、巧みな采配で村上軍を迎え撃ち、「摩利支天」のようだと恐れられたというが、史実ではこの戦いは1550年のことであり「甲陽軍鑑」の作者にはもう少ししっかりして欲しい。

1547年、上田原の戦いで大敗した村上義清は国を捨て、越後の長尾景虎(ながお・かげとら 後の上杉謙信)を頼った。
いちいち突っ込むのも面倒だが、史実では村上義清が国を捨てたのは1553年、上田原の戦いは1548年である。

1551年、武田晴信は出家して武田信玄と号し、勘助もそれにならい出家し山本道鬼斎(どうきさい)と名乗ったが、史実での信玄の出家は1559年である。

1553年、上杉家に備え北信濃に海津城を築いた。城主となった高坂昌信(こうさか・まさのぶ)は「武略の粋が極められている」と讃え、対上杉戦での拠点となった。

そして1561年、上杉謙信は川中島に出陣すると、妻女山に布陣し海津城をうかがう素振りを見せた。
それに対し武田信玄は海津城に入ると、勘助と重臣の筆頭格である馬場信春(ばば・のぶはる)に策を求めた。
勘助らは別働隊で妻女山を襲い、上杉軍が山を下りたところで本隊に攻撃させる、世に言う「キツツキ戦法」を立案した。(キツツキがくちばしで木をつつき、驚いた虫が飛び出したところを食べる様にちなむ)
信玄はそれを採り上げ兵を二手に分け、早朝に馬場信春らに妻女山を襲わせ、自身は勘助とともに逃げる上杉軍を待ち構えた。
しかし翌朝、馬場軍が妻女山を襲うと、そこに上杉軍の姿はなく、逆に信玄の本隊の目の前に展開していた。
不意をついた上杉軍の猛攻により、武田軍は潰走した。
信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)ら多くの重臣が戦死し、その中には勘助の名も含まれていた。
ちなみに上杉謙信が単騎で信玄の本陣に突入して斬りかかり、信玄が軍配で刀を受け止めたとされるのは、この時である。


~山本勘助は実在したか~
「甲陽軍鑑」は1600年代の初頭に書かれ、そこに描かれた勘助の勇姿は大いに人気を集め、講談や浄瑠璃など物語上で脚色されていった。
しかし先に挙げたとおり時系列の誤りが異常に多く、武田家も実際以上に美化されていることから、「甲陽軍鑑」は偽作であるという意見は当初からあった。
史料の研究が進んだ明治時代には、勘助の存在自体が疑問視され、架空の人物と認識されることがほとんどだった。

しかし昭和44年、大河ドラマ「天と地と」の視聴者が、「山本菅助」の名が記された古文書を見つけ、鑑定したところ真物であると判明し、架空人物説に一石が投じられた。
平成20年、「山本菅助」に関する文書がさらに5通確認された。彼が山本勘助と同一人物、あるいはモデルとなったかは見解が分かれているという。今後の研究が待たれる。

ちなみに「天と地と」の原作小説には勘助は登場しておらず、もしドラマ版でも原作準拠で登場していなかったら、「山本菅助」の文書の発見は遅れ、現在でも架空の人物とされていただろう。

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