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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―寿桂尼  今川家の守護神

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戦国列伝―寿桂尼  今川家の守護神


※アイコンは呉国太

寿桂尼(じゅけいに)
京の人(??~1568)

今川義元の母。本名は不明。
父は権大納言・中御門宣胤(なかみかど・のぶたね)。

1508年(1505年説も)、駿河の大名・今川氏親(いまがわ・うじちか)に嫁いだ。
氏親は病弱で1526年に没するまで十数年は病床に伏しており、夫に代わり寿桂尼が政務に関わったと見られる。
その証拠として氏親が没した年に制定された分国法が、当時は女性が中心に用いた仮名交じり文で書かれていることが挙げられるが、明らかに女性が関与していない他国の法度にも仮名交じり文の物はいくつかあり、確証には至らない。
ただし後の寿桂尼の活躍を見るに、関わっていたとしてもなんら不思議はない。

家督を継いだ嫡子の今川氏輝(うじてる)は14歳と幼く、16歳になるまでの2年間は寿桂尼が自身の印判を用いて国政を取り仕切ったため、彼女は「女戦国大名」「尼御台」などと呼ばれる。
1536年、氏輝と次男も相次いで没すると、出家していた三男の今川義元を還俗させ、家督を継がせた。
氏親の側室の子である玄広恵探(げんこう・えたん 本名不明)はそれに異を唱え挙兵したが、義元に敗れ自害に追い込まれた。
その際に寿桂尼は玄広恵探の側に付いたとする異説もある。

1560年、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家中の動揺を収めるため寿桂尼は国政に復帰し、義元の子で家督を継いだ今川氏真(うじざね)を後見した。
しかし屋台骨を失った今川家の凋落は覆し難く、1568年に寿桂尼も没すると、同年12月に武田信玄は同盟を破棄し今川領内への侵攻を始めた。
信玄は公卿の娘を妻に迎えているが、それを仲介したのは寿桂尼であるとも言われており、彼女の死は同時に武田家との手切れも意味していたのである。

寿桂尼は「死しても今川の守護たらん」と望み、館の東北、鬼門の方角にある寺に葬られた。年齢は70~80歳代と推測される。
しかし没後わずか1年で氏真は駿河を捨て遠江に逃れ、かつて家臣だった徳川家康に降伏し、戦国大名としての今川家は滅びるのであった。

公家の娘に生まれ蝶よ花よと何不自由なく育てられただろう彼女が、夫と子供の窮地に一念発起し国政を取り仕切る、その勇姿は「母は強し」という言葉を思い出させずにいられない。

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